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『残滓』ショート・ショート

「池之端四丁目までお願いします。」

アルコールが程よく回った体を無理矢理、車内に体を押しこんだ。無口な運転手なのか、サイドミラーを一瞥しただけで返事は無かった。草臥れたワイシャツの裾を捲りあげて腕時計にちらりと視線をやる。もうとっくに日付を跨いでいた。家内は既に寝ているだろう。明りのついていない我が家を思い浮かべて溜め息をついた。

あなた、お帰りなさい。パパ、聞いてよ。玄関先で家族が迎えてくれたのは、もう遠い過去である。この間まで自分の腕の中で眠っていた夏菜子は、もう家を出て行ってしまった。

梅雨明けの初夏の頃である。私と二人の男女は大きなテープルを挟んで座っていた。白いワンピースに身を包んだ女性は私の知っている夏菜子ではなかった。全身を泥だらけに汚して屈託なく笑う夏菜子ではなかった。グレイのばりっとした細身のスーツを涼しげに着こなしている好青年に柔らかな笑みを浮かべる。ああ、夏菜子はもう子供ではないのだ、と漠然と思った。テープルに置かれたコップの中の氷がからんと音を立てて落ちた。

クーラーの籠った匂いが鼻につく。相変わらず車内は無言のままである。あと三〇分もすれば家につくだろう。思えば、家内が私を待たずに寝るようになったのは夏菜子が家を出てからだ。子供を無事に送り出した安心感からだろうか。子供がいなくなった今、私のことなどもう気にする必要もないと思っているのか。家族の象徴として購入したはずの一軒家はただの冷たいコンクリートの塊だった。

運転手に窓を少し開けてくれ、と頼む。ぼそぼそとした返事があってから、熱帯夜の温い空気が車内に流れ込んできた。ねっとりと湿気を含んだ空気が顔を撫でる。あと数日経てば盆休みだ。

そういえば、実家から電話があった。例年通り、帰省の段取りを決める連絡である。厳格だった父親は孫ができてからというものすっかり様変わりをした。子供の頃は父親の隣に座るだけで、妙な緊張があった。息が詰まる。私の手のひらはいつも汗でびっしょりと濡れていた。懐かしくはなかった。記憶の中にいる父親が少しずつ、私から乖離する。まるで、思い出が自分のものではなくなっていく感覚だった。

「あ。この先の交差点を右折で。」

 タクシーは見慣れた道を走る。通り過ぎていく電信柱の数を数える。閑静な住宅街に人影は見えない。料金メーターが動いた。しまった。タイミングを間違えた。

「あれ?珍しく電気がついているぞ。」

 二階の角部屋。しかし、そこは先月出て行った夏菜子の部屋だった。必要な荷物は全て新居に運び終えたはずである。今更、何かを取りに戻ることもあるまい。それとも、家内が荷物整理でも始めたのだろうか。こんな時間に?一抹の不安が過る。まさかとは思うが物盗りかもしれない。急ぎ足で家の門を潜る。ポケットから鍵を出すという当たり前の作業に手間取る。

かしゃん。

地面に落ちた鍵の束。

がちゃ。

同時に玄関の扉の開く音にぎょっとする。腰を屈めた状態のまま私は固まった。上の方をみると玄関灯が漏れている。恐る恐るドアノブに手を掛けた。ひんやりとした金属の感触。ぎぃと重い音。額に噴きだした汗を袖で拭う。息を殺してぐっと扉を引いた。

「……誰だ?」

見知らぬ少女がぽつんと玄関先に立っていた。ぴんと張り詰めていた緊張の糸がぷつんと切れる。ふうと一息をついてから、私は目前に立つ少女をまじまじと眺めた。六歳くらいの可愛らしい少女はこくりと首を傾けた。頭の上の方で結ばれた二つの髪束が揺れる。デニム生地のワンピースに白いレース。スカートから覗く小さな肢体はいかにも健康そうな小麦色だ。にこりと微笑む少女にだらしないへらへらとした表情を返すしかできない。親戚の子供でも預かっているのだろうか。

アルコールの抜けてきた頭でふと考える。そんな話は家内から聞いていない。その上、家内がこんな深夜に子供を寝かしつけていないわけがない。あれは妙に教育熱心なところがあり、夏菜子の時だって私は横で閉口していることが多かった。バレエにピアノ、水泳、学習塾。それに文句も言わずに夏菜子は通っていた。子供はもっと遊ばせた方が良いんじゃないのか、と家内に提案したこともある。だが、あなたは何も分かってないわ、と何時ものように受け流されるのだ。

今、思えば夏菜子には随分と窮屈な生活を強要していたように思う。

「君はどこの子だい?」

この少女に幼い夏菜子を重ねているのか、自分が思った以上に柔らかなトーンだった。しかし、少女からの返りごとはない。困ったように首を振るだけだ。もしかして、声を上げることができないのかもしれない。元々、子供とのコミュニケーションが得意というわけでもなかった。一瞬、胸に灯った蝋燭のか細い火は急速に萎んでいく。私は少女に何を期待していたのだろう。少し自暴自棄になって声を荒げた。

「おーい!秋枝、起きているのか!」

滅多に大声を張り上げることがない私だ。神経質な家内なら直ぐに飛び起きると思った。汗で蒸れた靴を脱ぎ捨てながら階段から降りてくる影を待つ。だが、いくら待っても階段を下りる音はおろか、電灯をつける音すらしない。関係が冷めきった熟年夫婦なんてこんなものか。嫌に通俗的な言葉だ。

しかし、その俗っぽさが余計に私と家内の関係を的確に示している。おはよう。いただきます。ごちそうさま。いってきます。ただいま。当たり前が当たり前であるが故に、それらは日常から忽然と姿を消していた。最後に家内とまともな会話をしたのは何時だったか。

ぎし、と階段が鳴る。背中には小さい気配がひとつ。私は振り返って少女の顔を確認することはできなかった。言葉を持たない子供の無垢な瞳に心が射抜かれるのが怖かったのかもしれない。

私と家内は所謂、お見合い結婚だった。両親の古い知り合いの愛娘である。東京の大学を卒業して二年、仕事にも慣れてきた頃だ。今と同じくらいの時期に突拍子もなく父親から連絡があった。お前に良い話を持ってきたぞ。私に拒否権はなかった。いや、するつもりもなかったのかもしれない。父親の言うことは絶対である。それが幼子から培われた私の性質だった。だからといって、彼女に不満はない。正直な話、どちらでも良かった。

思えば、学生の時分から私は流されてばかりだ。親の引いたレールの上を文句言うことなくただ歩いてきた。一流大学を卒業して、一流企業に就職して、それなりの出世をして。端から見れば、文句なんて無いのかもしれない。これ以上に何かを求める私は欲張りなのだろうか。

「秋枝……居ないのか?」

寝室はもの気の殻だった。ベッドの上の布団は乱れたまま取り残されている。シーツに手を這わせる。人が横たわっていた生温かい感触は、ない。その冷たさが指の先から腕に這い上がってくるようで、私は後ろに飛び退いた。全身の毛が逆立つ。後ろにいたはずの少女はいつの間にか姿を消していた。

私は漸くこの家を取り巻く奇妙な雰囲気に気がついた。どろりとした体温のある空気が首を絞めつける。スリッパの中の靴下がじとり汗ばんだ。熱気が籠っているから気分が悪くなるのだ。そう自分に言い聞かせて、寝室の左側にある窓をあげる。窓から見える風景はいつもと変わらない。殺風景な庭先には放置されたままの子供用自転車があった。夜風が木々の葉を鳴らす。やはり、気のせいだ。あの少女も幻だったのかもしれない。そんな馬鹿な、と否定する声を無理矢理に頭の奥に押し込んで私は納得した。もう一度、家内を探しに行こう。

踵を返そうした刹那、ちりん、と風鈴の軽やかな音色がした。

『だれにもいっちゃだめだよ。』

私は直感的にそれがあの少女の声だと分かった。少し舌足らずで鈴を転がしたような可愛らしい声。しかし、その声は物理的に私の耳に届いたものではなかった。頭の中の倉庫から引き摺り出されたような感覚なのだ。どうして少女の声に覚えがあるのだ。あんな子供は親戚でも近所でも見かけたことがないというのに。だれにもいっちゃだめだよ。少女は誰に話しかけているのだろう。

地面の底からじりじりと責め立てる蝉の鳴き声は私の思考を朦朧とさせる。

暑い。

顎のラインをつたった汗は白いタンクトップに染みをつくる。窓も襖も締め切ったサウナのような部屋に一人で座っていた。ぽたり。睫毛の間を掻い潜ってまた滴り落ちた。顔全体に噴き出した汗を拭うこともせずに、私は一心不乱に何かを掴んでいる。

母親の甘ったるい香水の匂いが充満して漂う部屋の鏡台で化粧道具が散乱していた。逸る心をぐっと堪えて、鏡を覗き見る。飲み下した生唾が針となって私の喉を刺す。薄暗い部屋の中で私は歓喜に震えていた。畳の上に投げ出された何かに顔を押しつける。藺草の香りが鼻を擽った。

宗一、おやつよ。

母親が台所から呼ぶ声がする。私は飛び起きた。嗚呼、至福の時間が終わりを告げる。

『宗一、いるの?』

誰かが袖を引っ張る。あの少女が私を手招きする。可愛らしい笑みを浮かべては、いなかった。能面を貼りつけた顔。私は途端に少女の存在が恐ろしいものように感じた。夏菜子の面影の残るその顔が気持ち悪い。袖を掴む手を振り払おうとして、先ほどの声がフラッシュバックする。何の罪もない子供の手を無碍にできるほど、私は冷酷な人間ではない。いや、そうでありたいと私が願っているのだ。少女の人差し指が指し示す先には夏菜子の部屋があった。少女に促されて扉の前に立つ。この先に何が待っているというのか。正体不明の恐怖に怯え、同時に、少しの好奇心に浮かれていた。

『何をしているの!』

母親の怒声が部屋に響く。私は身体を縮こまらせた。微睡を漂う恍惚とした気分は空気の抜けた風船のように萎んでいく。顔面を蒼白にした母親は直ぐに駆け寄って、私の頬を叩いた。頬から熱が肌を侵食する。ちりん。ちりん。風鈴が騒ぎ立てた。母親の掠れた声。それは嗚咽には近かった。彼女が何故泣いているのか私には理解ができなかった。畳の上に散らばった衣服を拾い上げている。ナイロン製のワンピースには真っ赤な口紅がべっとりとついていた。

嗚呼、汚してしまった。

そんなことばかりが私の意識を支配する。細かいレースがあしらわれた白いシャツ。幾何学模様が派手な色遣いで描かれた赤いスカート。肌に吸いつく生地の青いワンピース。それは私の城の跡だった。しかし、開け放たれた襖は城の崩壊を意味していた。母親はヒステリーに不鮮明な言葉を叫ぶ。私は、ただ、瓦解した残骸の上で佇んでいた。

きぃと赤ん坊の泣き声のような音がした扉を開けた。淡いオレンジ色の照明に目を細める。夏菜子が出て行った、その時のままだ。何も変わりない。

「君は、私をどうしたい?」

意味の分からない行動の連続に私は少し苛立っていた。後ろにいたはずの少女に問いかける、返事が返ってくるはずがない。少女は喋れないのだから。大人気もなく子供に八つ当たりをしたことを後悔した。少女は部屋の前で迷った素振りを見せる。桟という境界を越えるか否か。廊下は全くの黒一色。少女の肌がぼんやり陰影として浮かび上がる。少女は白く隔絶された絵画だった。

『ごめんなさい。』

誰に謝っている。

『開けて。開けてよ。お願い。開けて下さい。』

ぱたん。閉じられる。

『開けて。開けてよ。お願い。開けて下さい。』

私は戸を爪で掻き毟った。黴臭い蔵。悲鳴が木霊する。涙と唾と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔。手足は泥だらけになっていた。天窓から差し込む月光が酷く冷徹な気がして空を睨んだ。私はただあの煌びやかな衣装に、あの魅惑的な紅色に、あの蠱毒的な香りに身を包みたかっただけなのだ。それがどうしていけないのだろう。私には分からなかった。右頬がじんじんと痛む。唇が擦り切れるほど布で拭きとられた。手の甲に散らばった紅の甘い香り。私は嫌で堪らなかった。丸刈りにされた頭も、味気ない白いタンクトップも、誕生日にもらった虫篭も。嫌で堪らなかったのだ。

「君は、」

少女はまた微笑んだ。

「お客さん、着きましたよ。」

かちっ。

料金メーターが動いた。


あとがき

10年前大学の課題で書いたショート・ショートを発掘。
夏らしくホラーで幻想的なお話を。

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