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映画『太陽を盗んだ男』は2021年を生きる私たちの何を盗んでいくのか

Netflixで『太陽を盗んだ男』を観た。1979年に上映された沢田研二(ジュリー)主演の日本映画だ。ジュリー演じる若い中学理科教師の木戸が、クラス旅行でバスジャックに巻き込まれ、菅原文太演じる刑事山下と出会う。その後の報道をきっかけに、木戸は自ら原子力爆弾を作り、匿名で山下を脅し、世界を翻弄していく。

この作品には、あまりにたくさんの要素が含まれていた。だから、1979年の作品なのに、2021年現在の状態と共振する部分を多々見つけてしまい、私は深夜に圧倒されていた。

そこで、この作品に描かれる要素を少し丁寧に解体していくことにした。

結局のところ「ヒーローになりたいけど、何をして良いかわからない」という、ひとりの人間の葛藤と拭いきれえない孤独を、この映画は浮き彫りにしていた。

さらに、原子力エネルギーへの認識の移り変わりも、主人公の目線から端的に描かれていた。こちらも、まさに現在の原子力発電への文脈とかなり通じるものがあり、私としては深く感ずるものがあった。

ここから、大きく3つのテーマで『太陽を盗んだ男』を分解していこうと思う。キーワードは、「男らしさの二項対立」「承認欲求」「原子力」だ。

1979年という時代背景から見えてくる二項対立、承認欲求、そして原子力のコンテクストを、シーンやセリフから考えていく。

また、最後におまけとして、各所に散りばめられたオマージュ的な要素も紹介としてくっつけておきたい(実際、大部分はこれらの細かくてお洒落な演出たちが私の心をギュッと掴んで、夜通し離してくれなかった)。

とにかく、これ読んで気になったらネットフリックスで観てみて欲しい。

①男らしさの二項対立

まず、注目するべきは主人公である理科教師・木戸と刑事・山下の対照的な男性像だ。

木戸を演じる沢田研二(愛称ジュリー)は、GSの人気グループ、ザ・タイガースとしての活動期を経た70年代、ソロ活動としては全盛期だった。中性的な魅力で大人気のアイドルで、77年の「勝手にしやがれ」などが言わずもがな有名だ。

そんなジュリーが、退屈を持て余す氏がない中学理科教師を演じているところが興味深く、その理由を菅原文太演じる山下との対比によって掘り下げたいと思う。

一方、山下刑事を演じる菅原文太は東映俳優で、70年代には『仁義なき戦い』シリーズでスターとしての確固たる存在を知らしめた人物でもある。

あまり詳しくないので有識者からすればスッカスカのことを説明すると、それまで「任侠映画」が持っていた義理人情的なイメージから、血も涙もない暴力的な文脈へと変容したのは、『仁義なき戦い』シリーズの影響が大きいといわれている。つまり、当時の菅原文太は「力強い男らしさ」を持ち合わせたイメージ像を持っていたことがうかがわれる。

ここでまず、映画という舞台からいったん降りて、役者として『太陽を盗んだ男』を見つめたとき、中性的なジュリーとマッチョで男性的な菅原文太が、「男性」として二項対立的なコンテクストを持っているのではないかなと考えた。さらに、菅原文太は当時の「男らしさ」の保守的なイメージであるのに対し、ジュリーはオルタナティブな男性像を表象している。この境界線が、映画序盤のバスジャックシーンで如実に表現される。

木戸のクラスが乗るバスをジャックした犯人は軍服姿で、天皇(当時は昭和天皇)に「息子を返していただく」ために、皇居へとバスを走らせるよう要求する。高度経済成長期の日本で、戦時を引きずったバスジャック犯と対峙するこのシーンが、教師木戸と刑事山下の二項対立を際立たせるトリガーになっている。

バスジャック犯の伝言役としてバスを降り、たくさんのパトカーを先導する山下刑事と接触した木戸は、勇敢にもその後の交渉のために、山下刑事と共にバスに戻る。「子どもたちを守るためですから」といった木戸に対し、山下は「理科はこういう時、役に立ちませんな」と冗談で返す。この一言が、木戸のその後の行動を決定づける火種となっている。

その後、バスジャック犯を無事に捕らえた二人は生徒全員を救出するものの、新聞では山下刑事が体を張ったヒーローとして大きく取り上げられる。

いっぽう、クラスではヒーローになったものの、木戸にとって普段の日常は何も変わらなかった。この時、彼の中で不完全燃焼となった承認欲求と、自身の知識を愚弄された経験が重なり、木戸は「ある大きな試み」によってそのフラストレーションを解消しようと考える。

つまり、山下が見せた「自分の命を省みずに人を助ける強さ」を、木戸自身も持っていたはずなのに、「刑事/教師」というイメージによって、彼の功績は世間からリジェクトされてしまう。そこで生まれた木戸のコンプレックスは、彼のプライドを大きく肥大させる。そこで、彼が考えうる最大の「理科の先生の栄光」が、原子力爆弾に繋がっていく。

ここで指摘しておきたいのは、木戸自身が正真正銘に優秀であるということだ。映画では「原子力爆弾は知識と材料さえ揃えば誰にでも作れる」と語られるが、制作を一人で行い、犯行声明まで計画していく様子は、不妨で抜け目がない。愉快犯を演じるウィットさや、メディアを活用する方法も秀逸で、つまり木戸自身が決して「落ちぶれた人間」ではないということが表れている。

そんな彼の有能さが「認められていない」という状況こそが、世界を揺るがすほどの大きな脅威を彼の手に持たせるフラストレーションの大きなきっかけとなっている。ここで、次のキーワードである「承認欲求」へと繋げていく。

ちなみに山下と木戸の死生観の対比も象徴的だ。これは、タナトスの解釈方法が、三島的(山下)か太宰的(木戸)か、というところで留めておこうと思う(バカ長くなりそう)。

②木戸流・承認欲求の満たし方

映画では、原子力爆弾を作る工程にかなり尺を使っていて、これについては3つ目のテーマとして後述する。そのため先に言ってしまうと、木戸は一人で原子力爆弾を完成させてしまう。ここから、一言で狂気的とはいいきれない、複雑な彼の承認欲求が顕になっていく。

まず前提として、彼の目は常に「共に闘ったはずの栄誉を独り占めした山下」に向いていることを忘れないでおこう。

ダミーの爆弾を議事堂に仕掛けた木戸は、声を変えて警視庁総監に「9番」と名乗る電話をかけ、丸の内署の一介の刑事でしかない山下を呼び出すように命令する。木戸が正体を隠しているため、山下は、「顔の見えない原爆犯」とこれから戦うことになる。

だが、木戸が言い渡す最初の命令は「いつも途中で終わってしまうテレビの野球中継を引き伸ばせ」という、中学生の夢みたいなものだった。こうした「空っぽの要求」は、山下からすれば愉快犯的に映る。

命令の内容に固執していないところは、別シーンでも描かれる。木戸が5億という金を要求した際、山下は「やっと本性を現したな」と結論づけようとするが、ここで木戸は渋谷にその金をばらまくように命令する。

つまり木戸にとって大切なのは、「山下と対等に張り合う」という関係そのものであって、命令の内容自体には執着していないことがわかる。

野球中継を引き延ばしさせた翌日、木戸が学校に行くと、野球中継が最後まで放送されたことを生徒たちが喜んでいる。ただ、これが木戸による犯行だと知る者は木戸以外にいない。警察も「原爆」というあまりに驚異すぎる存在の脅迫であるために、全国的なニュースとして発表できない。これによって、自分としての結果があまりにちっぽけであることに気づいた木戸が、次に起こす行動がメディアの活用だった。

次に、ラジオでバラエティを担当する女性 DJ「ゼロ」に、木戸は電話で原爆の話をする。日々のネタにマンネリ化していたゼロは面白がり、リスナーに「君が原爆を持っていたら世界に何を要求する?」というお題を出す。ここから、ネタとして「通称:原爆くん」は徐々に有名になっていく。

ラジオを通じて自身が有名になっていくことに酔いしれた木戸と、面白いネタを見つけたDJゼロは目的は違うながら、原爆くんのネタが「話題」となるようにどんどん仕掛けていく。

番組内でゼロが冗談で話した「ローリングストーンズを日本に呼びたいわ」という提案を、木戸は次なる命令として山下に電話で告げる。

これは、伝説的スターであるローリングストーンズの来日が決定することで、ラジオだけでなく新聞やニュースにも大きく取り上げられることを目論んだものだった。木戸にとって大事なのは、ローリングストーンズに来て欲しいということではなく、「自分の手で何か大きなことを動かした」実感だ。

ところが、テレビやラジオ、新聞を通じて承認欲求を満たしていくものの、木戸の心は晴れない。自分が、原爆を通じて何をしたいか、の部分がないからだ。原爆を通じて接触できる山下とのやりとりでのみ、彼は生き生きする。山下は一切手がかりが掴めないまま、唯一犯人と接触しているDJゼロを調べ始める。

ここで、DJゼロが女性であることにも注目しておきたい。彼女は、放送後に都合よく決まったローリングストーンズ来日から、「原爆くん」にロマンスを感じ始める。それは、馬鹿げた夢の提案が叶ったからというだけでなく、退屈な日常に表れた仮面のヒーロー的存在でもあったためだろう。また、捜査のなかで原爆くんを庇う中、彼女は木戸と直接対面することになる。彼女にとって原爆くんの正体は「私しか知らない秘密」となり、大きな魅力となる

また、人気のラジオDJの心を掴んだ木戸は、あえて彼女に取り合わない仕草で、彼女を翻弄する。彼は、メディアや美女を掌握することで、承認欲求を満たすだけでなく「何者でもない自分」を相対的に優位に立たせることに成功した

それでも、彼の心は晴れない。なぜなら、彼の最大の目的は前述の通りだからである。山下に対するコンプレックスが、自意識下で複雑に入り組んだまま、本当に痒いところには手が届かずに、木戸の劣等感はさらに加速していく。

この後、山下は果たして愉快犯爆弾魔の正体を突き止め、原爆を止められるか。木戸は、自身のコンプレックスを解消できるのか。この結末は、ぜひ映画を見ていただきたい。これだけ解説しても、まだまだネタバレにもならないし、語り足りないくらいだ。

「新旧の男らしさ」「承認欲求」をキーワードに見ていくと、木戸自身の人間臭いコンプレックスと承認欲求に対する衝動が、痛々しいほど浮き彫りになるだろう。

加えて、木戸のナルシシズム表象を、ジュリーという役者のフィルターを通じてはっきりと見出すことができる。印象的なのは、各所で登場する「窓ガラス」だ。

満員電車で顔を窓に押し付けられる冴えないジュリー、作業場のガラスに映る真剣な眼差しのジュリー、そして、窓ガラスを蹴破る怪物の覆面を被ったジュリー。木戸の自己肯定感は、窓ガラスとの対峙を通じてどんどん変わっていく。無意識の承認欲求を発露させる、とても秀逸な表現だった。

③原子力イメージの移り変わり

最後に、この映画で最も象徴的に描かれている「原子力爆弾」の描写について考える。ここではシンプルに時系列で三分割してまとめていく。木戸の原爆制作過程は、社会が原子力エネルギーをどう捉えてきたかの遷移とシンクロするものがある。「希望」「殺戮兵器としての危険性」「人体への害悪」の3つだ。

まず、「希望」について。木戸が原爆を作り始める時、とても象徴的な場面がある。私も好きなシーンなのだが、木戸が(ジュリーが)「鉄腕アトム」のテーマを口ずさみながら作業をする場面だ

最初、彼にとって原爆を手作りすることは「人を殺すため」ではなく「自分の叡智を絞って生み出す最高傑作」の結晶だった。つまり、「理科の先生の最大値」をピュアに突き詰めた賜物である。これは、原子力が夢のエネルギーとしてもてはやされてきたフェーズに通じるものを感じさせる。

次に、制作過程で数々の失敗やヒヤっとするシーンが描かれる。プルトニウムの熱処理中に家庭オーブンが煙を拭いて炎上したり、物質を誤飲した愛猫が死亡したり。自身が行っていることの危険性を、木戸が肌で実感する瞬間だ。また、出来上がった爆弾が、驚くほど手軽なサイズ感である恐怖も描かれる。この「原子力の脅威・恐怖」のシーンはかなり精巧に作られていて、視聴者さえも手に汗握る緊張の瞬間がじっとりと続く。

最後に、「人体への害悪」はかなりダイレクトに表象される。それは、爆弾が完成してから保持する木戸の体の異変だ。放射能によってだんだんと体が蝕まれていく木戸の様子は、山下の捜査を逃げる際やDJゼロとの接触時にも生々しく描かれる。ここでも、ジュリーという役者がより生きてくる。美形として人気を博す彼の髪がサラリと抜け落ちるシーンは、今見てもショッキングだ。

さいごに

ネタバレ(になっていないのだこれが)を回避しつつ、木戸という人物は2021年となった現在も、とても身近に感じられた。

優秀でも認められない人間はこの世にたくさんいて、ただし、メディアをうまく利用すれば界隈の人気者になることもできる世の中だ。

また、原子力は、いまだに人の手に負えない巨大な力である。”男らしい”ヒーローにも、優秀な知識人の手にも負えない。そういった部分も含めて、『太陽を盗んだ男』は、人間とは、社会とは一体何かを、2021年の私たちに伝えてくれる。

それと、3つのテーマには当てはまらないものの、私が心を盗まれたと思うほど印象に残った演出がちらほらある。

例えば、木戸がDJゼロと車に乗って逃避行をする時、はしゃぐゼロに向かって木戸が「勝手にしろ」と吐き捨てるシーン。ジュリーとゴダールの『勝手にしやがれ』がお洒落すぎる形で引用されている。

もうひとつ。木戸が「9番」と名乗って山下と電話するシーン。なぜ木戸が「9番」を名乗ったかというと、当時の核保有国が非公式を合わせて8カ国だから、9番目の「僕」という意味だと作中で彼自身が説明する。

この時、野球中継の演出がある。巨人対大洋ホエールズの野球中継を眺めながら、適当に命令を考える木戸と真剣に聞く山下の会話に、大洋ホエールズの山下がバッターボックスに立つ実況の声が重なるのだ。(お、お洒落…!)

この実況が、山下だけでなく、タイトルの「たいよう」のダブルミーミングにもなっている。また、オタク心で恐る恐る調べてみたところ、時期は違えど巨人には木戸選手というピッチャーがいたようだ。彼はたくさんの球種を持っていることで知られていたが、「自分で投げる球の筋がわからないんだ」と語っていたそう。投手は9番打者が定石である。痺れた。

結論から言えば、2時間半という長尺にも関わらずあっという間の、とてもとても面白い映画だった。

ちょっぴり無茶な演出もハリウッド調でよかった。『キャッチミーイフユーキャン』や『セブン』『気狂いピエロ』『俺たちに明日はない』などが好きな方は、見て損はないかと思う。漫画だけれど、『デスノート』好きにもおすすめできるかもしれない。

他にも、自宅にやってくる野良猫は「ティファニーで朝食を」のポリーを彷彿とさせたり、映画に詳しい人にとっては、私よりもずっと楽しめるんだろうなという要素が散りばめられている。主題だけでなく、こうした引用でも存分に楽しめる映画だった。

面白いので、是非観てみてください。終わりです。