シリアル・キラーと輸入雑貨店の休日

今日のところはもう、奴らは追ってこないだろう。

太陽が沈んでからずっと、路地という路地を辿ってきた。ここで一息、というところで、偶然見つけた灯に吸い寄せられるように、ここにたどり着いた。今夜は、いったん、ここでやり過ごすことにしよう。

地下に降りていき、カウンターの席に座る。オールバックで初老のバーテンは何も言わずにグラスを拭いている。さて、バーボンを……

視線を感じた。しっ、静かに。ここからはよく聞いて。じっと、注意するんだ。ここで捕まったら一貫の終わりなんだから。

警戒していることを周囲に悟られないように、目線だけをあちこちに向ける。いや、奴らの追手はここにいないはず。煙草の煙に紛れていたとしても、焦げたカラメルみたいな匂いはしていない。その香ばしい匂いこそが、奴らがすぐ近くにいる証拠なんだ。

だから、もしもその匂いが少しでもしたら、僕はすぐ行かないといけない。そしたら、君ともさよならだ。だって、面倒に巻き込まれたくないだろ?

見回した視線の最後に、彼女はいた。カウンターの奥でマティーニのグラスを傾けたままこちらを見ている。いや、睨んでいる。ネイビーのベロアで仕立てられたホルター・ネック・ワンピースに身を包んだ彼女は敵か、それとも味方なのか…?

どちらにしても、このまま目を合わせておくのは危険だ…逃げたほうがいいかもしれない。

「ねえ、一緒に飲まない?」

彼女は言った。油断できない。僕は無言のまま彼女を見る。彼女は肩をすかして短いため息をつくと、こちらの席の隣に近づいてきた。

「聞こえなかった? 一緒に飲まない?」

そのまま彼女はバーテンにマティーニを2つ頼み、一つをこちらに手渡す。オリーブがゆらりと揺れる。どこかにサインを送ったり、通報する様子はない。僕は少し落ち着いて、ゆっくりとグラスを手にとった………。

***

目覚めると、よく知らない部屋の天井と、ゆっくりと回るサーキュレーターが目に入った。明らかに、さっきのバーではない。危険を察知した僕がバネみたいに飛び起きると、向かいのソファに腰かけたアマンダがこちらを見ていた。

「もう、起きたのね。かなり酔ってたけど、あなた大丈夫?」

僕が転がっていたベッドサイドには綺麗なグラスに注がれた水があって、アマンダは右手でそのグラスを指し、どうぞ、と差し出す。バーにいた時は降ろしていた髪を、頭の高いところできゅっと束ねている。後毛一つないポニー・テイルは、まるで舞台に上がる前のバレリーナのようだ。そして、さっきはしていなかったフレームの無い薄い眼鏡をかけている。

「あの……ありがとう。」

しわがれた自分の声に驚きながら、僕は水を一口飲んだ。額のあたりの重みが、一気にやわらいでいく。

「えっと…僕は……バーに入って…君とマティーニを飲んで…そのあと…」

「そのあとすごい勢いで酔っ払って、何だかよく分からないことをおしゃべりして、カウンターで寝てしまったのよ。なぜか私がバーのシェイドさんに叱られて、あなたを家まで連れてきた、ってこと」

アマンダは表情一つ変えず、端的に事の経緯を説明すると、膝に抱えていたラップトップを開く。ディスプレイを反射させて、眼鏡が真っ白に光っている。まるで外国のアニメーションに出てくるインテリのキャラクターみたいだ。

「それで、あなたは私に秘密を教えてくれるって言ったわ」

アマンダは画面から目線を逸らさずにそう言った。一気に血の気がひいていくのが分かった。どうやら僕は、彼女に正体を少し見せてしまったのかもしれない。彼女が奴らの手先ではない事は、不幸中の幸いだった。いや、もしくはカマをかけているのか……?

「教えてくれるって言ったわ、かの有名なアンディさん」

「アンディさん?」

「とぼけないで、アンディ。あなたが凄腕のトレーダーだってこと、バーに入ってきた瞬間、私にはお見通しだったんだから」

「トレーダー?」

「私のことは騙せないわ、アンディ」

「人違いだよ、僕はアンディじゃない」

困りはてた表情で固まる僕の眉間を睨んで、彼女は徐にラップトップをこちらに向けた。そこには、僕とそっくりな顔の(でもよく見ると僕よりほんの少し精悍でほんの少し小綺麗でほんの少し若々しい)男が上等なスーツに身を包んで腕を組み、片眉をあげた表情でこちらを見つめる写真とともに、「新進気鋭の若手トレーダーの星、アンディに直撃インタビュー!!」という見出しがついている。

「これは、僕じゃないよ。たしかによく、いやすごく似ているけど…」

そう言って僕のあご下にある小さなホクロをアマンダに見せると、彼女は画面に映るスーツ姿の男と僕とを交互に見て、最後にもう一度画面をじっくりと見つめて、冷淡な口調でこう言い放った。

「ホクロなんて加工できるでしょ」

「一体、何のためにホクロなんて消すんだよ」

彼女は僕の何かしらの真心に気づいたのか、それとも自分なりに人違いを認めたのか、そのまま大きくため息をついてガックリと天井を仰いだ。

「ああ。失敗した。失敗した」

「失敗した、って何を」

「私にはお金が必要なのよ」

「それってどういうこと?」

「ドルをイェンに変えて、変えたイェンを増やしてドルに戻したいってこと」

「イェンって中国の通貨だっけ?」

「やめて。肝臓で溶けたマティーニが戻ってきちゃいそう」

「なら、僕、帰ったほうがいい?」

「……いえ。いいわ。久しぶりにゲームの相手じゃない人がやってきたんだもの。話相手になるわ」

アマンダは何故か自慢げにそう言うと、ラップトップを閉じ、大きく伸びをして、こちらに向き直した。

「あのバーにはね、私のターゲットがよく遊びにくるの。それは銀行マンだったり、ファンドのお偉方とか、トレーダーとか……。そこで私はいつもお金の秘密を教えてもらうの」

「どうしてそんなにお金が必要なの?」

「そんなの、言わないわよ」

「どうしてそんな、君の言うところの、いわゆる”ゲーム”をしているの?」

「あのバーには、ゲームに勝ってる人たちが集まってくるの。験担ぎってやつね。前に知り合った銀行マンが、アンディもここに寄るんだって教えてくれたから、勝利の秘密を教えてもらうために、週末はいつも待ち構えるの。今日こそ、今日こそ、ってね。それで今日、やっと…って思ったら全然別のそっくりさんを捕まえちゃったというわけ」

「そうか…それはごめん」

「いいのよ。私が間抜けだっただけ」

「でも君、そのゲームってやつさ、ちょっと危険なんじゃない?いくらお金が大事だからって……」

気まずい沈黙が流れた。彼女は少し怒っているようだった。白い開襟シャツの襟元から首を撫でている。何か考えている様子だ。僕は沈黙に気を使いながらグラスの水にもう一度口をつけた。その瞬間、アマンダがワッと大きな声を出したので、僕はグラスに少し水を吹き出してしまった。

「ど、どうしたの」

アマンダは震える声でこう答えた。

「私は間抜けすぎるわ」

「ど、どうして」

「どうして私は今ここにいるのよ?」

「そ、それは僕がマティーニを飲んで、酔っ払って、おしゃべりして寝ちゃって…」

「そうじゃなくて!ああ、なんて本当に馬鹿なことをしたの!」

「ど、どういうこと?」

「だから、この瞬間にもアンディがあのバーに来ているかもしれないってこと!」

トレーダー・ハンターのアマンダはそう叫びながら、急いで開襟シャツを脱ぎ始めた。こちらも急いで目をそらそうとすると、彼女はすでにシャツの中にネイビーのホルター・ネック・ワンピースを着ていて、束ねていた髪をおろす。両手で髪を少し整えると、ソファの下にきちんと並べてあった黒のヒールを履きながら、僕のほうを見た。

「あなた、朝までここで寝てていいわよ。私はもう一度あのバーに行く。私はもう一度、あのアンディを探しに行ってくる。冷蔵庫にはミルクとか、ヨーグルトとかあるから、朝は好きに食べていっていいわ。その代わり、8時までには出ていって」

早口でスムーズに指示を終えると、アマンダは眼鏡を外してソファを離れ、ワンルームのドアをパタンと開けて出て行った。あっけにとられた僕が、ミサイルみたいに消えていった彼女の姿を見たまま口を塞げないでいるうちに、オートロックは自動的に鍵を閉め、部屋には再び沈黙が訪れた。サーキュレーターの回る音だけが低く鳴り響いている。

冷静になってあたりを見回すと、彼女の部屋は驚くほど几帳面に整頓されていた。暖色の明かりのせいかと思っていたら、家具やカーテン、キッチンに並んだフライパンやマグカップ、鍋、ベッドサイドの時計とメモパッドまで、コーラル・ピンクで統一されており、驚くほどに等間隔だった。僕と、ソファーテーブルの上に置き捨てられたラップトップと眼鏡だけが、無造作な不調和を生み出している。

彼女がいなくなった部屋で、彼女がいた時よりも彼女の存在感に緊張しながら、トイレに向かった。マットやカバーやペーパーなど、またしてもコーラル・ピンクで統一されたトイレで恐る恐る用を足し、ベッドルームに戻る。

急に夢から醒めたように、少しの空腹を覚えた。冷蔵庫に何かある、とアマンダは言っていたから、何かちょっと頂戴することにしよう。ステッカーもマグネットも貼られていない、さらには指紋や、傷や、汚れすら一つも見当たらない新品みたいな冷蔵庫(これは残念ながらコーラル・ピンクのオプションカラーはなかったみたいだ)を慎重に開けると、またもや緊張感漂う具合に整理整頓されたバターや、卵や、ミルクが均一に陳列されていた。

冷蔵庫の上には美しくディスプレイされたペールピンクのガラス瓶が三つ置いてあった。最も衝撃的だったのは、どれもこれも同じ量で保たれ、残量が一直線になっているところだ。ホットケーキ・ミックスのような白い粉、ココアパウダー(通常、粉が散らばって瓶の内側が汚れやしないか?)、そして、オートミール。
「好きに」と言った彼女の言葉を最大限信用して、キッチンからマグカップを取り、瓶からオートミールを少し出して、開けっぱなしの冷蔵庫から取り出したミルクを注ぐ。冷蔵庫の横にあった電子レンジに入れ、スイッチをオンにする。

全体主義的に整った部屋でオートミールが温まるのを待っている間、ふと目線の先に、ラップトップと眼鏡(と僕)以外で、部屋の調和を乱す白い小さなメモを見つけた。それは、ベッド側の壁に貼ってあった。

見てはいけない、ような気がしたけれど、コーラル・ピンクの責め苦から逃げたい気持ちと少しの悪魔的な興味に駆られて、僕はそのメモに近寄った。そこには、走り書きで細かく、こう書いてあった−ーー

”夢を叶えるチェックリスト、その1、言語学習、その2、貯金、その3、海外留学、その4、貯金、その5、海外移住、その6、素敵な素敵なお店を作ることーーー”

メモは、”その1”から”その3”まで斜線で消されていた。おそらく彼女はいま、”その6”に向かうために”その5”に向かうための”その4”に、夢中なのだ。さらによく見ると、言語学習の下に”サンキュー、ヒ-サ-シ”と小さく書かれている。彼女は、”その1”を獲得するために、きっと夜な夜な「新進気鋭の言語スペシャリストが集まるバー」へ訪れ、ネイビーのベロアワンピース姿で、「新進気鋭の言語スペシャリスト」をハントしていたのだろう。コーラル・ピンクの要塞で、緻密に計画を立てては夜な夜なミッションを潰していく優秀なハンターに、僕は恐れ入ってしまった。

チリン、と電子レンジが音を鳴らす。まるでアマンダが「そこまでよ」とシャットダウンしたみたいだった。アツアツのオートミールをレンジから取り出し、ピンクの石の装飾がついたスプーンでかき混ぜながら、コーラル・ピンクのタータンチェック柄のカバーに包まれたソファに腰かけた。

…とにかく、これを食べ終えたら、朝を待たずにここを出よう。このままじゃ、僕の頭の中まで、すべてコーラル・ピンクに染まってしまいそうだよ。

使った食器は洗ったほうがいいだろうか?でも、僕が洗った食器をハントから戻ったアマンダは目敏く見つけるだろう。そして、もう一度新品として雑貨屋で販売できてしまいそうなほどキレイに洗って、磨き直すに違いない。

僕はあえて食器を洗い場にほったらかしにしていくことを強く決意して、火傷しそうな熱さのオートミールを急ぎ足で口に運んだ。