海と睡蓮と赤、青、黄

美しいものってなんだろうか。

小学生の頃、夜中に起こされてフリースと毛布をはおったまま、ベランダに出たことを思い出した。80年ぶりとかの流星群が見られるという日だった。

外は寒くて、外気に触れるほっぺたがつんと痛むような感覚があった。母は熱心に流れ星を探しているのだけれど、私はいつもと変わらない夜空を眺めながら、実際そんなに一生懸命な気持ちではなかったことを覚えている。

かすむような一瞬の流れ星を見た時も、そんなに感動しなかった。ぽろっと落ちていくような動きが、私の思っていたものとちょっと違ったからだ。なんというかもっとこう、きらりと輝いた後に飛行機雲みたいに尾を引いて消えていくものだと思っていたからだ。

ぽろ、ぽろ、いくつか流れ星を見つけたら、母親は満足して居間に戻って行った。私はもう少しだけベランダにいることにして、流れ星が見えたらお願い事を3回唱えるチャレンジに移行していた。ぽろ、の瞬間に3回唱えるなんて絶対無理で、無理だなというのもどこかでちょっと分かっているんだけれど、でも絶対に3回唱えきりたい、という気持ちの方が、流れ星そのものを見つけることよりも熱かった気がする。

美しいものってなんだろうか。

いつか東京の美術館でモネの睡蓮を見た時、私は近寄らずに遠くからその絵を眺めていた。大学でちょうど印象派のあたりの授業を受けていて、巷の大学生よろしく理論武装した頭で作品をずっと見ていた。

大きなキャンバスに描かれた色彩を、目を細めたりピントを合わせないようにして、何度も何度も見つめていた。アートってよく分からない。100年くらい前に人が描いた絵画を、キャンバスにのった絵具の集積を見ているのに、頭の中では木漏れ日が降り注ぐ湖畔で色とりどりにゆらめく蓮華を浮かべている。

私はその時、モネの睡蓮を美しいなあと思った。

その次に、私はモンドリアンの『コンポジション2 赤、青、黄』を見つめていた。今度は、ラインぎりぎりのところで立って、キャンバスにキスしそうなくらい顔を近づけて。

平面的なモチーフに至近距離で近づくと、絵具のこんもりとした様子が見えた。何遍にも厚く塗られたベタの赤と白と黄色と青。不規則な黒のグリッドも、よく見れば筆の跡でひっそりと滲んでいる。私は絵画を見つめていた。

私はその時、モンドリアンのコンポジションを美しいなあと思った。

美しいものってなんだろうか。

いつか海に行った時、私は知人に教わってボディボードをした。もうシーズンは過ぎていて、少し肌寒かったのだけれど、ラッシュガードを着ればまだ大丈夫、というくらいの水温で、最初波に触れたときはひやっとしつつ、肩まで浸かると自然と生温かく感じられるような陽気だった。

波を捕まえて、板に乗り込む。うまく乗れたら、波はすーっと岸まで私を運んでくれる。でも、慣れるまでは全然うまくいかなくて、何度も頭から海のうねりに飲み込まれた。

自分がひっくり返って頭から海に潜る時、私はとても楽しいと思った。いくら考えても、説得したり言い聞かせようとしても海には通じない。もちろん海に怒っても意味がない。ぶくぶくと音を立てながら、灰色の視界で体に泡がまとわりつき、私自身まで泡になっていくような感覚。私は海に抱擁されていた。波に乗っていくだけじゃなく、私はこの海に飲み込まれる感覚を心から楽しいなと思った。

太陽が遠くで海を照らすその下で、次なる波を待ちながらボードに跨っている瞬間は、ちょっとイメージすると傍目にはカッコ良さそうだけれども、自分自身は何もできずにぼけっと待っていて間抜けな感じだった。でも、何度でも波に乗りたくて、何度でも海に飲まれたくて、知人が岸に上がって休憩をしている間にも私はずっと海に浮かんでいた。

鼻と口にしょっぱい味を感じながら、自分よりも大きな力で優しくぐるんと体を巻き込まれる感覚を、私はとてもいいなと思った。

私はその時、海って美しいなあと思った。

それは、海の見た目の問題じゃなく、海そのものを感じて気づいたことだった。元々、海を眺めるのは好きだったけれど、波に乗って遊んだときはそうじゃなく、海そのものの存在が美しかった。その後、眺める海はより一層美しくなっていた。

ところで、美しいものって一体何なんだろうか。