[一] 私自身を探究するために

 一般に音楽は他者が聴くことを前提に制作する。しかし、この方法は私自身が求める”私自身の探究”であるのか、疑問である。 他者がどのように音楽を評価するのかを前提に制作を行うことで、社会性が大きく影響し(私の考える社会については別途記述する)、結果的には私自身の制作したいものが制作できなくなり、私の探求はできなくなってしまうのではないだろうか。例えば歌詞ではそのようにして言葉を選び、音階はどうしようか、これらの選択に社会性が大きく及ぼすことを懸念している。私自身、音楽制作においてはそれを選択をするという行為・意識そのもの・そしてその瞬間に宿る何かがあると感じており、これはまさに”探求”の道の上なのではないかと思う。そのため、選択や意思を何者でもない”社会”が決定するということはあってはならないと考えているところだ。確かに他者が聴くことを前提に制作する音楽というものは他者を幸福にできるかもしれない。しかしながら、その幸福とは私自身と本当に関係があるのか。何か朦朧とした・・・いや土台のない架け橋のように感じ、あくまでも娯楽に留まるのではないだろうか。いや、娯楽に留めなければ、私は私自身を見失ったことすらを忘れてしまい、”探求”なんて言葉を発しなくなるのではないか。
※私にとっての「社会」の定義は後日記述する。

娯楽といえばジャンクフードやスポーツ観戦など、世の中は娯楽に溢れかえっている。先述した社会が大きく影響を及ぼした音楽はその一部に過ぎないと感じるのである。この”娯楽”に興ずること自体を完全否定するつもりはないが、娯楽を嗜む傍ら、それらの人間の本業はどのようになっていくか。それは私自身の考える”探求”とは程遠く、何か虚しく感じるのである。社会的地位の獲得・社会システムの構築・承認欲求・性欲の解消。こういったことをまるで本業とし、その合い間に娯楽を嗜んでいるのではないか。この辺りは生への執着についても深く関係しているのではないかと思う。
その上で、「私自身の探究を行うため、どのように音楽と対峙すべきか」と考えてみると、それはやはり他者へ娯楽的幸福感を与えることを目的として制作するのではなく、音楽を駆使して私自信の探求を進めることのみを考慮すること。(今まで記述した内容そのままの記述で申し訳ないが、現時点では私にはこう書くしか思い浮かんでいない)それは数学的でもなく、論理的でもなく、三大欲求を満たすものでもない、私自身の選択と意思によって創造され、それを作り続けることにより、私自身がどのような道へと進んでいけるのかを確かめたい。この道を進むことを決めた今、多少のことでは折れたり、道を変えたりはしない。

では次に、「何故制作した音楽を公開する必要があるのか」についてだが、この答えは”同志を探すため”である。私が進むべき道、と同じ道・同じ方角へと共に進むことのできる仲間がいるとすればそれはとても心強。彼らは時に私を正してくれるかもしれないし、私に足りない何かを持った人間かもしれない。こういった可能性を考慮し、私は音楽を他者へ公開する。留意すべきことは、同志を遠ざけてしまう行為を行わないこと。これは言い換えれば「私の音楽は娯楽的である」と悟らせないことだ。

以上が私自身を探求することを目的とした音楽制作に取り組む私のスタンスである。数年後、これは間違っていたと思うかもしれないが、それは決して無駄ではない。私にとっても、皆にとっても、全人類にとって無駄ではないと私は考える。

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