[七]言葉と時間と感受性

言葉はコミュニケーションをとる上で便利だが、言葉で捉えることのできるものが私の感じられるものの全てではない。

「昔は〇〇だった、子供のころは・・・」
時間はタスク管理にも使える。数学・科学も多くの未知なる謎を解き明かしてきた偉大なもの。音楽の周波数やチューニングさえ、デジタル管理できる。しかしながら時間が雲を動かしている訳ではない。時間が私を変化させているのではない。揺れる木々が時間を進めているのではない。

当たり前のように使っているツールこそ、何のために存在しているのかを常に理解しておく必要がある。それがまるで体の一部と化して凝り固まってしまえば、言葉にされていないものが感じられなるかもしれない。時間についても同じことで、この世界は時間が支配していると決めつけてはならない。

思えば私は言葉を作り上げたことはなかった。最近は曲名に造語を使用しているのだが、その理由は上記のような考えを持っているためだ。何か言い表すことのできないものを感じた時、私の中で勝手に呼び名を付けて何が悪いものか。それはコミュニケーションのためではなく、私がそれをそう呼びたいだけだからだ。そしてそれは音楽として形を変え、私が感じたままを表現していく。子供に名前を付けるとき、なんと呼びたいか決めるのと同じはずだ。子供がいないので正確な感情はわからないが。とにかくそういう目の前にある、まだ名前が無いかもしれないその情景や現象、そういったものを取りこぼしてしまうことが私の感受性を劣化させる危険性がある。

時間についても同様で、分析結果として割り当てられたその”数字”が全てと思い込み、全ての物事には必ず目盛りがあると勘違いし、全体を感じることができなくなったり、整理されたものが正しいと思い、そうやってそこから脱却できなくなるのが怖いと私は感じる。

ここでは文字で表現することしかできないため過去と呼ぶが、過去の私、子供のころの私がまるで一分一秒という単位で分割され、年という単位で分割され、それはやがで”時間が経過した昔の私”ということになっている。
なぜ子供のころの私と今の私が同じであるのに、分割され、今の昔ということで認識しなければならないのか。コミュニケーションをとる上で、それは便利であるだろうが、私が私を認識する際に、そういった分別は不要なはずだ。すべては私であり、今とか1秒前とか、それは便宜上そういう共通言語でルール化されているだけであり、すべて同等の私だ。子供のころの私はもう居ないのか、消えてしまったのか、そんなことはない。身長や体重は見るからに変化しているが、いつだって5歳の私だし、20歳の私だし、変わらないのだ。

社会に参加しているとそこでの共通ルールが染みつき、やがては私個人を社会的思考回路で認識してしまう。それはやがて私自身の思考回路の基盤を蝕み、すべてが便宜上の言葉や数字に支配され、そうなれば私ではなく、すでに存在する言葉と数字で構築された人造人間となってしまう。本来の私はどこかえ消え去り、永遠に認識することができなくなり、世界はそういった人間であふれかえり、そうなれば数字で組み上げられた人間を作っても何ら差支え無くなるわけである。

私は上記のように人間がコンピュータ化することについて、人間としての価値を感じない。

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