[六]社会で病む者

この見出しに該当する人間は過去の私である。
私はまるで社会の奥深くに埋没したように、そこに参加している時こそが生きている価値であり、私の唯一の居場所であるかのように考え過ごしていた。しかし、今では考えが変わったためそれは後に述べる。
そもそも社会というのはあらゆる共通ルールが成立することにより成り立っており、というか共通ルールそのものの塊である。まるでこの世界に生きる理由は社会貢献することであるとか、そんな風に考えていると過去の私のように病む。もしくはその数多のルールという檻の中だけがこの世であるかのように囚われていくだろう。さて、いったいそれの何が問題なのかについてだが、社会というのは人間と人間が対峙し、何かを共有せざるを得ない時、ルールを設ける。もし一切ルールを設けない場合はどちらかの人間が駆逐されるだろう。人間と人間が関係を持つことが起源となり、それを維持するためのルール設定が行われ、それが巨大化したものが社会であると私は考えている。このルール設定はルールを設定することそのものが目的なのではなく、それぞれの人間が生きていくために致し方なく設けるものだ。時には自分にとって分が悪いと感じるルールもあるだろう。

上記を前提にして社会に参加した時、”どれだけ素晴らしいルールを構築できるか”、”どれだけ構築したルールを完璧に守り模範的であるか”といった行為を生きる価値、生きる理由と呼べるだろうか。それは決して私自身の価値であるはずがなく、まるで私自身が社会という巨大なシステムの一部に吸収されてしまい、社会そのものの一部と化してしまうだけだと考えた。やがては社会の欠陥を見つけた時、”自分の欠陥”、あるいは”他人の欠陥”のように感じ始めるかもしれない。(私はそうなる前に脱したが)
私が何かミスをしたり、他人が何か粗相をしたり、そこに悪意が無ければそれは社会の欠陥であり個人の価値には全く影響しないはずである。設定されたルールそのものが悪いか、ルールが未設定のために起きた事象に過ぎないはずだ。

勿論、私は社会に参加する際、悪意を持って参加したりしない。
先述した”どれだけ素晴らしいルールを構築できるか”、”どれだけ構築したルールを完璧に守り模範的であるか”といった行為は、社会を構築する上で重要な姿勢だと考えている。しかし、何度でも強く言いたいことは、まるでそれが私の生きる価値だと勘違いしないことだ。

私は私自身の価値を見出すため、探求し、その手法として音楽を使う。この時、私の音楽制作に社会の影響は及ばない。いや、及ばせてはならないと考える。どんなにインプレッションが得られなくても、注目されなくても、制作時に社会性を含んでしまえば、それはやがて社会を構築する材料と化してしまい、私自身の探究とはかけ離れ、目的から逸れてしまうためだ。

最後に。
社会についての文章が多くなってきたが、それは音楽に社会性を持たせないという線引きを私自身のために明確にしておきたいからである。


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