見出し画像

「たにん」で世界は回っている~なんでも一人でやっちゃいがちな人バージョン~

たにん、と聞いてどんな字を思い浮かべますか?

普通は他人でしょうね。
今日のタイトルには他人他認のふたつの字を当てたいと思います。


まずは他人の話

当人じゃないものが他人です。
他人っていうとなんか冷たい感じがするよね。ふしぎ。
事実としての、当人じゃない存在のことを他人としましょう。

私たちが生活していくうえで、他人という存在を切り離すことはできません。
外出しないときでさえ、身の回りにあるものすべて、他人が作ってくれたから生活が成り立っています。
そう考えるとすごいな。自分がほんとちっちゃく見える(笑)

お仕事をしていれば、大体他人が関わるもんですよね。同僚かもしれないし取引先かもしれないし購入者かもしれない。対価も他人からいただくもの。
一人暮らしじゃなければ、関係性は問わないとして、同居人という他人が家にいる。あ、ペットの可能性もありますね。

他人がいなければ日々は成り立たないわけで、神話よろしく人間は一人では生きていけないわけです。


そして他認の話

他認、って辞書には載ってないはず。
でも字面を見たら、ニュアンスは伝わっていることでしょう。
他者からの認識、認知、承認etc...
当人以外の存在から自分というものを認められること、また認められている状態のことを他認としましょう。

よくある話としては、
「あいつって明るくてちょっとバカなやつだよな~」って友人に言われてる人が実はめちゃくちゃインドアで根暗なのにがんばって友達付き合いをしていて、でもそんなこと周囲の人間は知らないから「明るくてちょっとバカなやつ」というレッテルの人間として存在している、とか。

「本来どういう人間なのか」ではなく、「どんな人間だというふうに見られているか」がその人のラベルになるわけですね。

もっと言えば、「人間」という輪郭をつくっているのは他者の認識に依るところである、と。
名前で想像してみるとわかりやすいんですけど、例えば日本人には姓名があって、それを呼ばれることで自分が呼ばれたと判断して返事をしますよね。
鈴木花子さんという人がいたとして、いつも鈴木さんやら花子さんやらハナちゃんやらと呼ばれて返事をしていたと。
それがある日突然、「そういえば田中さんさあ」と声をかけられたら。
一瞬目が点になるでしょうね。
え、私、鈴木ですけど、って。
呼び間違いかな? って。
でもそれが一人じゃないんですよ。
誰も鈴木という名前を口にせず、
鈴木なんて人はそこにいなかったとでもいうように、
ありとあらゆる人がこぞって自分を指す呼称として「田中さん」と声をかけてきたら。
「おはよう田中さん」
「田中先輩、これどう思います?」
「田中さーん、さっき田中さんのこと探してたよ!」
「おお、田中、ちょっと頼みがあってな」
「田中さん、お疲れ様~」

「あれ、私、田中だった……?」

ちょっと、ぞっとしません?
鈴木という存在を、だぁれも認知していない。
とすると、いままで鈴木として過ごしてきた時間も疑わしく思えてきませんか?
その過去は、本当に存在していたのでしょうか?

飛躍が過ぎると思われるかもしれませんが、そういうことです。
他者によって自分のパーツを認識されることで、私たちは自分という輪郭を認識しているんです。
認識されなければ存在しないのと同じこと。
認知されなければ、存在は成立しないのです。

だから、「他人」と「他認」によって世界は成立しているわけです。


さあ、「たにん」に伝えよう

誰かによって成り立つ存在が自分である、と認めることは、はじめはちょっと怖いと思います。
いままで信じてきたものってなんだったんだろう、って気持ちになるかもしれない。ふざけるなって言いたくなるかもしれない。
自立を良しとされてきたのに、他者に頼らなければ存在すら危ういものなのか、と。

これは捉え方の問題だと思うんです。
自分だけの話じゃないってことに気付けたら、ちょっと感覚が変わるんじゃないかな。
自分が「たにん」によって成り立つように、周囲のすべての存在も「たにん」によって成り立っている。ということは、自分も他の存在にとっては「たにん」で、成立させるための要因になり得るということ。そこには相互依存の関係があるわけです。つまり、依存のない存在なんて在り得ないってこと。物でも人でも。
この依存の性質をクリーンなもの、且つ相互にとって有益で、優しいものにしていくということが、生きていくうえでとっても大切なことだと思うのです。

だからね、なんでも一人でやっちゃって誰かに頼るのが苦手な人。
まあ私もそうなんですけど。
そもそも依存によって世界は回っているんだから、そんなにひとりぼっちで踏ん張りすぎなくってもいいんじゃない?
ちょこっとだけ世界のお力をお借りすることがあっても、お返しができたらいいんじゃないかなあ。

自分が認識しているよりも、他人にとっては簡単に答えを出せるものかもしれない。
自分が認識しているよりも、他人にとっては簡単にやれちゃうことかもしれない。
誰に言っていいかもわかんないんだけどちょっと協力してもらえたらめちゃめちゃありがたい、ってことを発信してみたら、ひょいひょいってやってくれる人が案外近くにいるかもしれない。

なので、伝えることに対する抵抗感にちょっとだけ目をつぶって、一個だけ心の鍵を外して、伝えてみたら何か変わるかもしれない。

(「大変だ」と思うことの程度って、本人と周囲とじゃ尺度が違うもんだから、きっといつでも常にどこかの誰かが「大変だ」って思って生きてる。
だから「いまこんなこと言うのは……」って世間のタイミングに対する遠慮も、本当はいらないんじゃないかなって思うんですよね。もちろん賛否両論あるでしょうけど)

そして、伝えて、応えてもらえたら、今度は自分が誰かに応えてあげよう。
そうやって依存関係の中に良い循環が生まれていくことで、助け合いながら生きている私たちみんなが前を向いていけるようになる。
良い空気や良い心持ちを伝えていくこと、良い瞳で他者を認知すること・認めることが、さらなる好循環を生む。
「相手を変えることはできないんだから自分が変わろう」って聞いたことがある人も多いと思うんですけど、見方を変えるって、そういうこと。
たまに感度があんまり良くなくって、好循環を跳ね返しちゃってる人もいるけれど、そういう人にはムッとするんじゃなくて、いつか気付いてほしいなあと思っておけばいいです(笑)

自分の鍵をひとつ外して、他者に伝える自分を許すことで、物事は想定していたよりも簡単に動き始めるものだったりします。
まあ頭でわかっててもできるかどうかって言ったらなかなか難しいんですけど。
私もモヤモヤを言葉にするのってめっちゃ難しいな~って思いながら日々生きています。
そんな日常で、たまに「たにんによって世界は回っている、自分が存在している」ってことを思い出せたら、ちょっとだけ肩の力を抜いて生きやすくなるんじゃないかなーと思うのです。

みんながハッピーに生きていける世界になるように、優しい環が繋がっていくことを心から願っています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?