馨佳観察 3月8日
ここのところ、冬物のコートじゃ少し汗ばむような陽気が続いている。
どうしようか迷ったものの、今日はバイトもなく真っ直ぐ帰宅する予定だったので、厚手のパーカーを上着代わりに羽織ることにした。
時刻は午前7時50分。これから10分歩いて最寄り駅へ向かい、8時の電車に乗り、8時15分に乗り換えの駅に着く。そこからさらに満員電車に揺られること15分、正門まで5分で大学に到着。講義が始まるのは9時からだったが、その前に別の学科の友人に借りていたDVDを返す約束をしていたので、いつもよりも早く家を出たのだった。
10分ちょっと違うだけで、いつもとは別の道を歩いているみたいだ。
せかせかと足早に横を通り過ぎていくサラリーマン。ぐずっている子どもを乗せたママチャリ。いつもきれいなお姉さんが開店準備をしているフラワーショップはまだシャッターが閉まっていて、その並びにあるコンビニの前には配送の大きなトラックが停められていた。
改札を抜けると、ちょうど電車が来るタイミングだったようで、ベルが鳴り終わる前にいつもの乗車位置の車両に乗ることができた。見知らぬ顔ぶれの人々が、独特のひりついた雰囲気を漂わせている。「8時半頃に出社なんだろうな、朝早くからお疲れ様です」と心の中で呟き、イヤホンから流れるロックバンドのサウンドに思考を放り出した。
大きな駅の通勤ラッシュは、外側から眺めていると、まるで黒い波がうねっているように感じることがある。
3路線が乗り入れるこの駅も例に漏れず、朝から無機質な空気をまとった集団が途切れることなく動き続けていた。
余裕を持って出てきたから、自分自身は急ぐ必要はない。電車を降りると邪魔にならないように通路の端を歩き、乗り換え専用の改札に吸い込まれていく列の最後尾に並んだ。
あと2年後には、自分もこの光景の一部になってしまうかもしれない。正直、まだ仕事の選択肢を絞ることはできていないけれど、そうなるのは少し嫌だなと思う。
前の人が改札を抜ける。次は自分の番だとICカードをタッチして視線を上げた瞬間、不意に、目の前を横切る人混みの中から予想もしなかった人影を見つけた。
肩より少し短い黒髪に、華奢なピアス。見覚えのあるバッグ。
「え、馨佳さ……」
声をかけようとして、どきっとする。
泣いている?
こんな、早朝の駅で……?
戸惑った一瞬のうちに、彼女の背中は私鉄の改札へと消えていた。
見間違い? いや、確かに馨佳さんだった。
そして、目元を、指先で。
ドッ、と体に衝撃を受けて現実に引き戻される。
「っあ、すみません」
後ろから来た人がぶつかっていったようだ。舌打ちが聞こえたような気がしたけれど、そんなことはどうでもよかった。
再び人の流れに紛れるように歩きながら、意識は今見たものに囚われていた。
なんだか、見てはいけないものを見てしまった気がする。なんだったんだろう。どうしたんだろう。
もやっとしたものが、居心地の悪さとともに胸のあたりに沈んでいる感覚。でも直感で思う。これは、たぶん、触れないほうがいいもの。
上手く整理がつけられないまま、大学へは向かったものの、結局その日は一日中頭の中に彼女の横顔がこびりついて離れなかった。
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