ありのままの現実とは何か?
ありのままの現実とは何か?
ってすごく抽象的なタイトルだけど、この話を書きたいと思ったのにはきっかけがある。
友人にお勧めしてもらい、グザヴィエ・ドラン監督の『わたしはロランス』という映画を観た。
とてもとても美しい映画だった。
空から洗濯物が降り、あり得ないくらいたくさんの枯葉が宙を舞う。
現実では考えられない光景なんだけど、
この映画を観終わって最初に感じたのは、
「この映画は限りなくドキュメンタリーだ」
というものだった。
18世紀後半、トーマス・エジソンのキネトスコープ、リュミエール兄弟のシネマトグラフの開発で「現実は再現できるのではないか」というウキウキ感がただよった。
でも、そもそも人間の目は「ありのままの現実」なんて見ていない。
例えばラーメン次郎にとてもとてもふくよかな人が並んでたとする。
申し訳ないけどぼくは「不健康そうな人だ」と感じる。
それは「ありのままの現実」ではなくて、僕が風景の中からふくよかな人だけを切り取って想像しているだけだ。
ということは、いくらありのままの現実を映そうとしたところで、ありのままの現実を「知っている人」がいないので証明できない。
旧ソ連の映画監督のジガヴェルトフがこんなことを言っていた。
「私は、私だけに見える世界を皆に見せるための機械だ。」
「ありのままの現実」があるとすると、ぼくたちが「それぞれに感じている世界」のことなのだと思う。
だから「ありのままの現実」を誰かに見せるためには、「私だけに見える世界を見せる方法」が必要だ。ジガヴェフトフの言うように。
しかしそれは不可能だ。
要するに、現実は再現することができない。
そこで出てくるのが表現だ。
『わたしはロランス』を観て限りなくドキュメンタリーだと感じたのは、表現を通じてグザヴィエ・ドランの現実を再現しているように見えたから。
いわゆる「ドキュメンタリータッチの映画」は、ロングショットの長回しを好む。編集による現実の破壊を恐れるからだ。
しかし、この映画は同じ空間にいる人と人をことごとく分断する。もはや同じ空間にいても別々の次元に存在するが如くだ。
でも、「空間を共有しているにも関わず一緒にいない」という感覚こそが、彼にとっての世界の見え方なのだと思う。
要するに地続きの現実以上に、編集による分断の方がリアルだということ。
こうなってくると、奇妙な交錯が生まれる。
物語が真実であり、現実が嘘だという交錯。
ぼくらがなんとなく共有してると感じてる「現実」って、本当は存在しないのかもしれない。
僕にしか見えない世界をみんなに見せられる表現力が欲しい。
おしゃべり版もあるのでよかったら聴いてみてね。
これを読んでいるってことは、投稿を最後まで読んでくれたってことだね。嬉しい!大好き!