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「愛」ってよく分からなかったけれど。

「愛」という言葉が好きじゃなかった。
出てきた途端に全てがあいまいになってしまう感じがした。

愛について考えようと思った時。
愛してると感じた瞬間は?
逆に愛されてると感じた瞬間は?
恋と愛の違いって?
なんて具合に、複数の角度から愛に近づこうと試みてみる。

いろんな光景を思いつきはする。

子供が産まれた時。
両親の無償のgiveを想った時。

でも、思い出される光景の抽象化を試みても、愛本丸にたどりつくことはない。ただ、愛っぽいことを思い出してるだけだ。

むしろ、映画や人から聞いた話の方が愛を強く実感できる。例えば映画『スワロウテイル』でフェイホンがグリコに向ける目線にはまさに愛を感じる。

ふと、思う。

もし、フェイホン的視線が自分に向けられたとしたら、僕はそれを愛だと受け取るだろうか。きっとぼくは、愛に気づかないだろう。

客観視して時初めて愛に気づく。
なぜだろう?

愛が「自分ごと」にならない理由。
それは「自分が自分を受け入れてない」からだ。ぼくがぼくを「愛すべき対象」として認めてあげないから、(きっと愛すべき対象なのだろう)他人のことでしか、愛を感じられないのだと気づいた。

一方で、
「仲間は、ぼくに比べてぼくのことを受け入れてくれているのではないか」と思える時がある。

ぼくのダメなところも、良いところもひっくるめて「しゃびだね」と受け入れてくれている、と実感できる瞬間だ。しかし残念ながら当のぼくは、「ひっくるめてしゃびだね」とは全く思っていない。

ここに「愛」というワードに対するむず痒さがある。

愛以前に、ぼくはぼくを受け入れてあげる必要がある。そこで初めて、ぼくは「愛の候補者」として社会にアクセスすることができる。

アクセスして初めて、愛が自分ごとになる。

ぼくがぼくに謝ってからが始まりだ。
対象外にしてごめんね。




これを読んでいるってことは、投稿を最後まで読んでくれたってことだね。嬉しい!大好き!