
客観性は時に毒である。
昔、同僚(A)が共通の上司(B)に憤っていたことがある。
「あの人は一体誰の味方なんだ怒」
Bはとてもクレバーだ。
仕事に感情を交えない。
Aが人間関係のモヤモヤを打ち明けても、
「Bのここに課題があるから、そこを直せばいいんじゃないか」
と伝える。
確かに正論なのだけど、Bが聞きたいのはそこじゃない。Bの言い分は痛いほど分かった。
昨日、高校の同級生と3人でおしゃべりをした。
友人宅で3人マスクしながら話す光景はとてもシュールだ。
友人Cが夫婦げんかの話をしている。
Cは陽気だが冷静な判断をする男だ。
僕の常識はずれの行動を、いつもたしなめてくれる。
話を聞くと、夫婦げんかあるあるだった。
Cの話が上手なことも相まって、2人のすれ違いが手に取るように感じられた。
Cはよく状況を整理して発言をしているが、奥さんはそういう話をしたいのではない。Aと同じで感情の話をしている。
さて、我が家では「収納」という課題に向き合っている最中だ。
妻が言う。
「私は片付けが苦手なのに、しゃびのものまで片付けている。とてもストレスだ。」
ぼくは妻に輪をかけて片付けが苦手だ。
妻は苦手な片付けを人の分まで担っているのだから、たまったものではない。
僕は妻にヒアリングを始める。
今の状況、必要な収納スペース、実現可能なことをノートに書いて整理をする。
「では、ここをこうしたらどうだろう?」
妻に提案する。
ん?
僕はAとCと全く同じ轍を踏むDであった。
AやCと同じく、僕も客観的にものを見るのが好きだ。好きだというより癖だと言ってもいい。
「客観」とは「客が観る」と書く。
なので客観的にものを見ている時は、当事者意識が犠牲になっていることが多い。
AやCの話を聞いていた時の僕は、
【コミュニケーション】を客観的に見ていた。
「AとCはどこですれ違ったのだろう」
と考えた。
いざ当事者になった時ぼくは、
【課題】を客観的に見ていた。
絵に描いたような「知っていると出来るは違う」を演じていた(妻のトリセツを読んでもできるとは限らない)
客観性を活かすには、今客観的であってもいいところがどうかも含めて客観性を発揮しないと「地雷を踏んだらサヨウナラ」状態に陥る。
客観性と共感性は二律背反的だ。
「客観的であること」を長所と思うのは時に毒だと胸に刻もう。
おしゃべり版もあるよ。
良かったら聴いてみてね。