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笑いと恐れ

「いない、いない、ば~」になぜ赤ん坊は喜ぶのか

赤ん坊の母親は、赤ん坊に顔を向けてそのまま自分の顔を両手で隠し、「いない、いない」と言いながら少し時間を稼いでちょっとしたストレスを与え、タイミングを見計らって「ばあ~!」という声とともに手を開いて赤ん坊に顔を見せると、赤ん坊は大きな声を上げて大仰に喜んでくれる。つまりかつて落語家の桂枝雀が言っていた緊張と緩和という構造が笑いにつながるという説にも重なる。もちろん自分にも幼い頃があって、同じように大はしゃぎしていたのだ。なぜ赤ん坊は、「いない、いない、ば~」をしてもらうとそれほど喜ぶのか、私は物心ついたころから不思議に思っていた。私には動物行動学の知識はないし、あくまで思い付きの意見なのだが、こう思うことがある。
まず、「いない、いない」とされることによって、赤ん坊は母親がいなくなったということに恐れを抱く。もしそれだけで終わるなら赤ん坊は恐れおののいて、泣き叫ぶに違いない。だからそのあとでお母さんが「ば~」と言って顔を見せても、まずは用心深く本当の母親であるかどうかを確認し、母親であったなら警戒は解いてくれるだろうが、すぐに大笑いにはつながらない。しかし、「いない、いない、ば~」の場合は、それとは違って何か芝居がかった様式があるような気がするのだ。

チンパンジーには、笑いと恐れの表情が未分化

このことについては、こんなことをふと考える。チンパンジーと人間はDNAの95%までが一致していて、違っているのは5%程度だといったようなことがよく話題になる。しかも最近ではDNAの違いがもっと少なくて2%程度の違いしかないのではといった話題も聞こえてくる。いずれにしても人間とチンパンジーがDNAの面でも酷似していることはどうも本当のようだが、やはり違っているところもある。遺伝的に大きな違いか、小さな違いであるかは置いておいて、私は笑いと恐れの表情や動作は本来同じ起源のもので、人間の場合は笑いと恐れの表現が完全に分化しているが、チンパンジーの場合はまだ未分化で、笑いと恐れの表現が一緒、あるいは一緒に近いということを聞いたことがある。

もしその理屈で行くならば、笑いと恐れの表現は紙一重のところにあって、人間としてまだ完全に成熟していない赤ん坊は、笑いと恐れがまだ完全に分化していない。だから赤ん坊が「いない、いない、ば~」に大喜びするのは、お母さんがいなくなるという恐れが、実は一種の芝居であって、安全が約束された嘘の恐れであることを知っている。そこで母親が登場してきて、思っていた通りに安全であることが確認できると、恐れは一瞬にして喜びと笑いに転嫁するのではないだろうか。これも桂枝雀師匠と同じロジックだ。
つまりそのことを私たちが喜んで視聴する芝居や映画などに置き換えると、安全を約束化された恐怖を楽しむのが娯楽と言えはしないか。そしてその恐怖が安全なものであると確信できる装置として、舞台という装置、映画のスクリーン、テレビという装置があるように思えるのだ。

決して起こって欲しくない悲劇を安全なところから見て楽しむ

つまり、自分には決して起こって欲しくない悲劇や、遭遇したくない恐怖を安全化された装置によって楽しむのが「芸術」や「娯楽」の根源的な意味ではないかと思うのだ。かなりはしょった理屈なので、一つの可能性として想像しているのだが、音楽をテーマに説明すると、動物の一つである人間にとっては、音そのものは決してすべて歓迎できるものではない。静かな虫の音が鳴っているところは安全だが、虫の音が一斉に止むと、それは何かが忍び寄っていることであるのかも知れず、不安なことに違いない。しかし私たちがいつも楽しんでいる音楽には、メロディとして変化に富んだ音が耳に飛び込んできて、ある意味不安に感じるが、同時にその音の連続にはリズムという秩序化した要素が加わる。つまり、不安な気持ちに通じる変化に富んだ音が、安全化されたリズムによって、私たちは安全化した不安を楽しんでいるのではないかと思うのだ。


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