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読書感想文:五分後の世界/村上龍(幻冬舎文庫)

ツアー報告記の連続投稿に飽きたのでこういうのを挟みます。
10年以上好きな村上龍センセイの中でも私の中でトップを争うくらい好きな作品、五分後の世界。
私は龍センセの中では、戦争をテーマに据えた作品が特に好きなのだが、比較的短く読みやすい五分後の世界は、もう5回は読み返している。読むたびに心が震え、興奮し、力が湧く。

なんでなんだろう、自分がなぜこの作品が好きなのか言葉にできないので、感想文を書いてみることにした。書きながら理由を見つけていこうと思う。


自分が「崖っぷち」に立たされているような時、そんな事は頻発には起こらないのだけど、少なからず私にもそんな時はあって、伸るか反るか、責めるか引くか、勝つか負けるか。そんな心拍数の上がってしまうような状況で、龍センセイの作品、特には五分後の世界が、私の闘争本能に火をつけ、生きることの背中を押してくれる時がある。もう何度も読んでいるので、DNAに溶けてきているようだ。

「元いた世界とは五分ずれた平行世界の日本」になぜか飛ばされてしまった主人公オダギリは、幼少期に親に捨てられ、親代わりの叔父を14歳で半殺しにし、殺人と強姦以外の全ての方法で生き延びてきた男。
その世界では、日本は第二次世界大戦でポツダム宣言を受け入れず、純粋な日本人は26万人に減ってしまいながらも世界最強の軍事組織と「アンダーグラウンド」と呼ばれる超高度な地下都市を有し、アメリカを始めとする国連軍と戦い続けている。誇りを全世界に示しながら。
戦うことを優先して生きるここの日本人たちは、とても単純なルールのもと生きていて、誇りを忘れずに、余計なものを欲さずに、でも明るく健やかに目標に向かい自分の得意、やるべきことをただただ研ぎ澄ませている。世界に誇れるレベルまで。

オダギリは開始早々、普通は物語のクライマックスとして設定されるような大きな戦闘に巻き込まれて、功績を上げる。元の日本で、裏の世界で生き延びてきていた彼は、こちらの日本国軍兵士には遠く及ばないまでも、生き延びる本能、彼の生い立ちから生じる怒りや胆力で、生き延びる。
日本国軍が、オダギリにスパイ容疑をかけ、処刑をしようとした時に「ここをどう思う?」と尋ね、それにオダギリが答えた言葉を引用する。

あんたはしらないだろうけど、オレがもといたところはみんなひどいおせっかいで、とんでもねえお喋りなんだ、駅で電車を待ってると、電車に近づくな、危ないから、なんて放送があるんだぜ、電車とホームの間が広くあいてるから気をつけろっていう放送もある、窓から手や顔を出すなってことも言われる、放っておいてくれって言ってもだめなんだ、自分のことを自分で決めてやろうとすると、よってたかって文句を言われる、みんなの共通の目的は金しかねえが、誰も何を買えばいいのか知らねえのさ、だからみんなが買うものを買う、みんなが欲しがるものを欲しがる、大人達がそうだから子供や若い連中は半分以上気が狂っちまってるんだよ、いつも吐き気がして当たり前の世の中なのに、吐くな、自分の腹に戻せって言われるんだから、頭がおかしくなるのが普通なんだよ、ここは、違う、
p119,120

長い引用になってしまったが、続けてもう一つ長い引用をしてしまおうと思う。これは今回ロンドンから日本に帰ってくる飛行機の中で読み返して、震えてしまった部分。

オダギリを元いた場所に返そうと、国民ゲリラ兵士が敵地視察の任務にオダギリを混ぜ、ついでにオダギリを特定の座標まで送り届ける、という作戦における場面。極限まで鍛え抜かれたゲリラ兵士とは違い、オダギリは死線でヘマをしないで生き延びる術を知らない。一回小枝を踏み鳴らしてしまっただけで、部隊は全滅してしまう。そこで20歳そこそこのミズノ少尉がオダギリに敵地の歩き方を教える。

「常に二人一組で行動する、お前のバディはオレだ、オレがお前の前を歩く、オレを常に見ていろ、止まったら止まる、歩き出したら歩く、伏せたら伏せる、オレの足跡をなぞるように歩け、それでも昼間は三メートル以上は近づくな、夜のブッシュでは二メートル後ろにつけろ、競合地帯では、敵に先に発見されたらほぼ終わりだ、お前が不用意に妙な動きをしたり、音を立てたりしない限り、オレ達はミスをしない、もし敵と遭遇した場合でも、向こうが気付かない時は戦闘を避ける、そういう時は絶対に動くな、音を立ててもそれで終わりだ、だが恐怖で目を閉じてはいけない、オレを見ていなくてはいけない、最も大切なことがある、絶対に悪い想像をしてはいけないということだ、最悪の状況をイメージしたりしてはいけない、敵に囲まれて何時間もそのまま息を凝らして潜んでいなくてはいけないような場合、戦闘になって追いつめられたような場合、負傷した場合、絶対に悪い想像をしてはいけない、大丈夫だ、と自分に暗示をかけるんだ、それから負傷しても決して死ぬことはないと思え、実際、頭と心臓以外だったら撃たれても人間は死なない、両足を吹っ飛ばされてもオレ達がちゃんと目的地まで運んでやるから安心しろ」
そう言ってミズノ少尉は笑った。なんてわかりやすい説明なんだ、と小田桐は思った、ほとんどすべての人生相談の答えを聞いたような気がした。
p244,245

(中略)とかやろうとしたけど、簡潔で必要最低限な説明なので、省きようがなかった。
確かに、「ほとんどすべての人生相談の答え」のように私も感じる。


特に日本は安全な国で、治安の心配は諸外国に比べたら少ない。
例えば外国の観光地で、各国の団体客なんかを見比べてみても、日本人観光客の顔つきは、なんだか優しいし、穏やかだ。纏う空気が柔らかく、弛緩しているから日本人だとすぐにわかる。私は日本人のそんなところが好きだし、外国に外国人として住んでいると、やっぱり日本人特有の優しさに救われたりすることが本当にたくさんあった。だからゆるいとかぬるいとか批判するつもりはないが、それだけで良いわけではないと私個人は感じる。
感染症、戦争、政治のあれこれ、物価の上昇、環境の変化etc..この先の不安を見出すことはいくらでもできる。2020年2月以降パンデミックにより、世界があっという間に変わってしまったこと、たくさんの命や、機会、経験を失ってしまったことを私たちは実感している。それなのに、日々が大変すぎて生きていくのが大変すぎて、今日に飲まれていってしまう。

私は、戦わないといけない、と感じる。戦って、勝利を手にしないといけない瞬間は、確実にあると思っている。
もともと特別なオンリーワン、というのは当たり前だし、そこを大切に尊重することは、その人の品性や思慮深さ、その人のレベルが顕れる部分なのでもうあえて触れるところではないと思う(子供には別だと思う)。2002年からこの国に刷り込まれてきた価値観、20年後の我々はもうすでに知りすぎているほど知っている、誰だってあのフレーズは歌える。

どんな人にだって、崖っぷちの瞬間は訪れる。そんな時、両の足が吹っ飛んだような気持ちになることなんて、物騒ではなく、あるでしょう。
こういう時に、勝ちに行けること。恐怖に目を閉じずに、絶対に悪い想像をしないことは、とても難しい。ましてや、安全で平和なこの国で生きていると、闘争の本能なんてすぐに鈍ってしまうよ。
両足を吹っ飛ばされたとして、目的地まで送り届けてくれる信頼できる仲間がいたとして、ギリギリ生きて辿り着けたとして、そこからどうしたらいいの?なんて、ミズノ少尉には愚問なのだろう。そんなことお前にしかわからない、自分で好きにしろ、と言われるような気がする。

そのくらいで、良い。愛は欲しいし、甘やかされたい。平和も享受したいし、もし今後子供が持てるのだとしたら、わざわざ辛い思いなんかしてほしくないし、平和を心から祈る。けれど、戦う術は必要。これは格闘技を習わすとかではなく、もっと広い意味での話だ。

激しい戦闘シーンがクライマックスではなく初っ端から出てきて、グロテスク描写も容赦ない。でも現実ってこういうものだと思う。血は赤いし、燃えれば炭になる。アドレナリンを一気に引き出された私は、その充分すぎるほどページ数を割かれ、スピード感に溢れるシーンを一気に読み、その痺れた脳みそのまま、さらに読み進めてしまう。
途中、ワカマツという世界的な音楽家の圧巻の演奏シーンもあるのだけど、そこにも未来への一筋の光を毎回見出してしまう。

柔らかく、大きな心で生きていたいけれど、戦う意志を忘れないこと、その上で、ふにゃふにゃと生きていきたい。平和だと信じ込み、見たくないものを見ないで生き続けるには、この世界はもうそんなに優しいところではなくなってしまっているように感じてしまうから。周りの大切な人を、守りたいから。なんだか鈍っているかも…と不安になったら、この本を手に取りたくなる。私にとって、世界にチューニングを合わせるための効力がある物語なのかもしれない。


うーん。長くなる。簡潔に書く練習もしたいけど、まぁとりあえずこんなところで。

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