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ロシアにラスコーリニコフごっこをしにいく/ペテルブルグ、犯行現場

 こんなに面白くて、かつ有名な本を、みんなが読んでいないのが不思議でならない。罪と罰は登場人物のキャラ立ちが激しくてほとんどジュブナイルだと思うし、実際ミステリー小説の元祖だと言われている。鬱屈した貧乏大学生の主人公ラスコーリニコフ(イケメン)は、正義感が強くて賢い妹ドゥーニャ(美人)を地元に残して上京している。貧困から売春婦に身をやつすヒロインのソーニャ(薄幸系美人)は底抜けに純粋でいたいけだ。主人公を何かと助けて世話を焼いてくれる同級生のラズミーヒンはめちゃくちゃいいヤツだしやっぱりイケメンで、最終的にドゥーニャとくっつく。これはハリー・ポッターがジニー・ウィーズリーとくっつき、ロン・ウィーズリーがハーマイオニー・グレンジャーとくっつくのと変わらない。ただ、ラスコーリニコフに立ちはだかるのがヴォルデモートではなく、金貸しババアを恨みもないのにぶち殺しちゃった罪であるというだけのことなのだ。あと愉快なハグリットや厳しいマクゴナガル先生の代わりに出てくるのが身代飲み干して売春婦の娘に金をねだるマルメラードフとかドゥーニャをトロフィーワイフにしようとしたのにケチ過ぎて失敗する45歳のルージンとかなんですけど。ちなみに私が一番好きなのはドゥーニャのストーカーで嫁の金を使って幼女と婚約した末ピストル自殺するスヴィドリガイロフです。

 さてその罪と罰の舞台がペテルブルグなのである。ペテルブルグ文学という言葉があって、永井荷風や川端康成にとっての東京のように、この特殊な街が舞台であるということがとても重要なのだ。ラスコーリニコフはペテルブルグの街をさ迷い歩く。ロシアでは古い建築が日常生活に使われているので、作中に登場する建物がそのまま、普通のマンションとなって残っている。ラスコーリニコフがさまよい歩いたペテルブルグの街を、そのまま歩けるという寸法で、この旅の主目的はそこにあったし、期待以上のものを見てくることができた。

 今回はロシア旅行社という老舗の代理店(何しろ独自ドメインが「russia.co.jp」である!)に現地ガイドをつけてもらったのだが、これが存外に良かったので紹介しておきたい。ロシア人のおじさんで日本語ペラペラなのだが、形のくずれた書類カバンのくたびれた持ち方といい、その人自体がドストエフスキーの小説に出てきそうなのだ。場所自体はどれも有名で自分でも簡単にリサーチして巡れる場所なのでガイドを頼むかかなり迷ったのだが、入れない場所に入れたり、地元の人の感覚でしかわからない場所があったり、頼んだ甲斐のあるツアーになった。

 それではめちゃくちゃネタバレしながら紹介していきます。引用は光文社古典新約文庫版、亀山郁夫先生訳より。まず最も重要な場所、ラスコーリニコフの家と金貸しの老婆の家だ。

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 ラスコーリニコフが住んでいた建物はかなり有名でドストエフスキーのレリーフもついている。屋根の真下にある彼の部屋は、部屋というよりも戸棚。ラズミーヒンは船室という。家主のおかみは一階下に住んでいて、まあ自分のアパートのロフトを人に又貸ししているような状態。ラスコーリニコフはこの未亡人の娘と婚約するも娘が死んじゃうしラズミーヒンはおかみに惚れられてやりまくって都合よく使った挙句友達に押し付けようとする。どんなだよ!

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 ラスコーリニコフは金貸しの老女をやっつけにいく際、自分の住む建物の門番小屋から斧を持ち出す。その門番小屋がここにあったとのこと。

 次はラスコーリニコフがぶっ殺す質屋の老婆が住む建物。ラスコーリニコフの家から七百三十歩ということになっているが、もっと遠い。

この建物は、全体が細かい部屋に区切られていて、仕立て屋から金物工といったあらゆる職種の職人や、料理女、いろんなドイツ人、春をひさぐ女たち、小役人その他が入居していた。(中略)門からすっと右に折れて階段に向かった。階段は、暗くて狭いいわゆる裏階段だった

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 要するにいかがわしめの雑多な集合住宅だ。門から中庭に入って、それから建物の入り口。

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 文中の通り、右手側に階段。ここでガイドさんが住んでる?人に交渉して入れてもらってくれた。勝手に入るのはやめましょう。

 老婆が住む部屋(右)は部屋番号までそのままだ。

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てことは、ここのドイツ人は引っ越すわけだ。つまり四階のこの階段とこの踊り場は、これからしばらくあのばあさんの専用ってことになる。(中略)敷居をまたぎ、衝立で仕切られた暗い玄関口に入った。衝立の後ろには、ちっぽけな台所があった。老婆は、だまりこくったまま青年の前に突っ立ち、不審そうに相手を眺めていた。やせた、小柄な老婆だった。年のころ六十前後、悪意のこもるするどい目つきをし、鼻はちいさくとがり、頭には何もかぶっていなかった。白髪のまじる薄色の髪には、油がたっぷり塗ってあった。にわとりの脚のように細長い首には、フランネルのぼろ布のようなものが巻いてあって、この暑さだというのに、肩に擦り切れて黄色く色あせた毛皮の胴着を羽織っていた。(中略)青年が通された小さな部屋には、黄ばんだ壁紙が張られ、窓にはゼラニウムの鉢植えが置いてあり、モスリンのカーテンが掛かっていたが、ちょうどこのとき、夕陽に明るく照らし出されていた。

 訪れたのは朝の10時ごろ。中庭に朝日が差し込んでいるから、部屋には確かに西日が差すのだろう。老女の部屋は二間で、ラスコーリニコフに手違いでついでに殺されてしまう義妹のリザヴェータと一緒に住んでいる。ラスコーリニコフの部屋も「黄色い小部屋」と描写され、ソーニャの部屋も擦り切れた黄色っぽい壁紙が貼られている。ドストエフスキー博物館で再現されているドストエフスキーの私室の壁紙も黄色い。壁紙は前のものを剥がさずに重ねて貼っていくそうで、けずると前の壁紙が見える。擦り切れた壁紙の下にはまた壁紙が見えていたのだろう。

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 老婆を殺したあと、異常な興奮状態にあるラスコーリニコフは逃げそびれるが、二階でペンキを塗っていた職人のニコライたちがはしゃいで喧嘩をしながら階段を「転げおちて」いき、その混乱に乗じて逃げ果せる。階段には今やフリーwifiのステッカーが。犯行を果たしたのは夕方だから、階段は暗かったのだろう。

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 そしてラスコーリニコフはまっすぐ自宅に戻り、偶然門番が不在の門番小屋に斧を戻す。

 部屋に入るなり、彼は服を着たまま、どうとソファに倒れ込んだ。眠りはしなかったが、忘我状態にあった。 

 翌日、ラスコーリニコフは老婆の家で盗んだものをポッケにつめこみ、隠し場所を求めてペテルブルグをさまよい歩く。

窓のない壁にぐるりと取りかこまれた中庭へ通じる入り口を、ふいに左手に見つけた。(中略)すばやくアーケードをくぐりぬけた。(中略)ちょうど外側の壁のところの、せいぜい七十センチほどの幅しかない門と給水管のあいだに、二十四、五キロも重さがあろうかという大きなごろ石が、石塀にじかにもたれかかるようにして転がっているのに気づいた。(中略)石の下にはちいさな窪みができていた。すぐに彼は、ポケットの中身を窪みに投げこみはじめた。

 金貸しの老女が貯め込んでいたお宝を、犯行現場と自分の家から2ブロックくらいしか離れていない場所の、その辺の石の下に隠してしまうのだ。それから物語が終わるまでずっとお宝はそこで眠っている。そこはラスコーリニコフの家のすぐ横のヴォズネセンスキー通りをネヴァ川へ向かう途中、元老院広場の手前。実際歩いてみるとかなり近い。というかすべての出来事が、ペテルブルグどころか一つの町で起きているような距離感。徒歩10分圏内。新宿駅から新宿三丁目駅ってかんじ。よく自首するまで捕まんなかったなラスコーリニコフ。

 そう、自首するまで捕まらなかったのです。次は自首するまでの旅路を追ってみます。

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