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「女の責任の取り方」についての映画

 アメコミ映画の大ファンなので『ワンダーウーマン1984』を劇場で観てきた。前作『ワンダーウーマン』は観ていない。理由は「カッコ悪いから」の一言に尽きる。

 こんなことは時代に逆行しているので、あまり言うべきでない。しかし、ぼくは昨今のハリウッド作品に、しばらく心底ウンザリしていた。もっとも、ぼくはスノッブを気取るシネフィルではないから、それでもCGを多用し、大爆発が起きる金ジャブTHEハリウッド映画は大好きだ。ちなみに、ぼくの最も好きな映画は、マイケル・ベイ監督『トランスフォーマー』シリーズである。

 さて、では何にウンザリしているのか。「安直な女の自己実現」ばかりを描く昨今の作品にウンザリしていたのだ。ポリコレ嵐の吹き荒ぶ昨今だから、この傾向は、ぼくの大好きな作品群にも顕著だ。トランスフォーマー『バンブルビー』、『M.I.B.インターナショナル」、X-MEN『ダークフェニックス』、MARVEL『キャプテン・マーベル』。どの作品も女性が主人公だ。

 このあたりについて思うところは、以下の記事にて、若き論者・竹屋淡二君と話しているので、興味あれば御一読頂きたい。X-MENダークフェニックス論である。【空想神学読本・特別版】 責任世代の貴方に 『X-MEN:ダークフェニックス』BD&DVD発売記念対談 2019年9月25日

 念のため申し添える。ぼくは「女性の自立」を大いに推奨している。ただ、どうにも「女性」自身にとって、「男性のような自立」を確立することが根源的に、あまり善いことではないかも...と思っている。なぜなら一般的な傾向として、明らかに男女のコミュニケーション能力や社会認知の方法が違うように思うからだ。

 もっとも野生の宗教家の勘だからエビデンスなどない。蛇足ながら、ぼく自身の「sex/gender」をめぐる宗教的感性については、以下に置いている。暇があれば読まれたい。ちなみに「ポリコレ」なんてものは、時流そのものだから、十年後や100年後には全く違うものとなっているだろう。だから、あまり気にしても仕方がないものである。

 さて、そんなわけで、ぼくは前作『ワンダーウーマン』を観に行かなかった。理由は、そもそも「見た目がカッコ悪い」から。いくら強くてもサーカス団員みたいな装備では…といった感じ。もっといえば、ヒーローものだから、別に女である必要がない。アイアンマンのように全身を機械で覆われていたって構わない。

 ところが、先日、贔屓の喫茶店の知人が『ワンダーウーマン1984』を褒めていた。教えてくれたのは『ストレンジャーシングス』の話題で大いに盛り上がった人である。あの傑作を楽しめる人が「久しぶりの劇場ということもあったけれど、女性らしさも描かれていて、美しい」と表現した。ならば、観に行かねば...!と劇場に足を運んだ。

 結果、面白かった。まず要約すれば、『ワンダーウーマン1984』(※以降WW84と表記)は「女が責任を引きうけるときのプロセス」を描く作品だ。では、WW84と他の作品の違いはどこにあったのか。

 それは、やはり「安直な女の自立」を描かなかったことではないか。WW84は、むしろ小賢しい少女が自立し、願いの達成と喪失の果てに「責任を引き受けていく」そのプロセスを描いている。

 劇中の描写で、ひとつ気になることがある。クリス・パイン扮する恋人スティーブの顔である。委細は省くが、この「スティーブの顔」こそ、本作品全体がワンダーウーマンたるダイアナの内面、体感している世界、肌触りであることのサインとなっている。つまり、本作は、あくまで一人の女性の内面の物語として提示されている。いいかえれば、善悪は措いて、ある一人の女性のファンタジーがWW84 である。

 余談ながら、この点は、同じくDCキャラ作品『ジョーカー』の作品内妄想の可能性にも通底している。ワンダーウーマンは真実へと目を開き、ジョーカーは狂気へと開かれていく。

 WW84は「女の責任の取り方」についての映画である。ダイアナとバーバラという二人の女性は、女なら誰もが経験する「憧れと現実」を描いている。一方は自分とはあらゆる意味で違う「憧れの女性」、他方は、ときに目を背けてしまいたくなる、鏡を見ているような「残念さにまみれた女」。理想と現実、願いと現状。その二つを結ぶ紐が「可能性」だ。

 女は、スーパーヒーローとしてのダイアナにもなれる。しかし、一方で、ダイアナの抱える負の側面の合わせ鏡バーバラのようにもなってしまう。ひとりの女の心で繰り広げられる、浮いては消える理想と現実のいくつもの可能性。

 超人ワンダーウーマンとしてのダイアナでさえ、本作冒頭に描かれるように幼少期は、小賢しい立ちまわりで、独りよがりのフェアネス(公平さ)を求めて周囲の女と競い、勝負した。それは若さ以前の幼さ、未熟さの表れでもあった。

 しかし、喪失の後、仮初めの甘い夢をみて、「真実」を受け入れた女は強くなる。事実、物語の終盤でダイアナは自らの歯止めない欲望を取り下げることを世界に語りかける。複数の可能性を総取りしてしまいたい、際限ない願いの膨張にこそ、女の暴走があるのかもしれない。そんな自分の願いをきちんと殺すことで、女が自分になる物語。その意味で、終盤のこの場面は、映画冒頭のダイアナの幼少期と対になっている。

 もし男の責任の取り方が「戦争」という、誰かを殺し、殺した相手の分まで生きて死ぬことならば、女の責任の取り方は「公平」さの前に自他の願いを殺し、自他の生き残りを活かすことなのかもしれない。そして、この「責任の取り方」の差に、じつは男女の時間に関する感性の差があることを言及しておきたい。しかし、残念ながら、それを語る力がぼくにはない。ただ分かる人には、これで伝わるのではないかと思う。批評家・黒嵜想のことばを借りて言えば、それは『インターステラー』と『メッセージ』における時間論の差異である。

 WW84は、女のもつ複眼的な時間の可能性を踏まえて、「公平さ」を問うている。そう読むと、平穏な自分のありようと生活を確立し、優しさをもって共助を生きるのが、この作品が描く「女」の「責任」感性なのかもしれない。

 「女」の感性という意味では、恋人スティーブを演じたクリス・パインの扱いは、如何ともし難いものがあった。ぼくは彼の顔をJJエイブラムス「スタートレック」シリーズで知っているので、あまりにアホっぽい彼の扱いには、ちょっと驚いてしまった。男が添え物として扱われていることが問題ではなくて、女が思う男の可愛さ、理想的な男性の姿に、少々閉口したと言える。無論、この作品はダイアナの心象風景なのだから、そういう意味では、よく描けているのかもしれない。

 本作WW84は、女の責任の取り方についての映画である。そう読むと、ぼくにはひどく納得し得る内容だった。自分の決断を認め、促し、待ってくれた上で、自己犠牲をもって消えることのない愛で背中を押してくれる男性が、ダイアナにとってのスティーブなのだ。ダイアナは、スティーブに出会うことで、「母の娘」から「女」になる。しかし、スティーブの死という真実を受け入れることで、もはや彼女は、娘でも女でも母でもなく、「私=自分」になる。ダイアナの主体が起き上がる物語、それがWW84だと言える。

 キリスト教徒であるぼくには、もはやダイアナがイエスと婚約を交わした修道女、献身者にも見えてきたが、それは気のせいだと思うし、余談でもある。

 そして、ここまで考えてみて、ふと思う。要するに、ぼくはWW84を、よくある男性的な挫折の物語の範疇におさめたから理解できたのではないだろうか。これは多くの男性が分かってくれると思うが、男は、アレもダメ、これも駄目、それでも自分はここだけでは負けない―――がんばるのだ―――といった形で、自己を起動する。ぼくは、結局、WW84をそのようにしか理解していないのかもしれない。

 あと、もう一つだけ思うことがある。クリス・パインの出演するスタートレックとの比較である。スタートレック・シリーズは、つねに米国におけるリベラリズムの最先端を走ってきた。最近年の作品『ディスカバリー』は、地上波で白人と黒人のゲイカップルが熱い口づけを交わす場面をテレビで流したとして話題になった。

 その「スタートレックのリベラリズム」から考えると、WW84は佳作かもしれないが、それでもまだ不十分だ。たとえば、スタートレック『Deep Space Nine』では、金に汚く醜いフェレンギ人の恋愛が描かれている。徹底した男尊女卑社会を敷くフェレンギ人の恋模様が描かれる。特殊メイクの宇宙人だから、人類の基準からいって男女ともに美しくも可愛くもない。

 何が言いたいか。昨今のハリウッド産スーパーヒーロー映画は、たしかにポリコレに配慮するリベラリズムの牙城として、そのような作品を量産してきた。しかし、そこで描かれてきた「女」は、やはり見目麗しく、強靭な肉体をもつ「女」だった。

 その意味では、本当に徹底したリベラリズムを体現しているのは、むしろ半世紀前から人々の想像力の源泉足り得てきたスタートレック・シリーズではないか。異星人との恋愛は当たり前、異なる星系や宇宙域では、あらゆる宗教と文化、科学、社会、精神の在り方があり得る。そして、その調停と調整には限界が必ず伴っている。「スタートレック」は、この意味において、つねにリベラリズムの最先端をワープ速度で航行してきたのだ。

 さて、ナードの語りはここまでにして、WW84に戻ろう。個人的に、よく皮肉が利いているな…と思ったのは、ダイアナを演じる女優ガル・ガドットに言わせる「ハッピーホリデー」の台詞である。イスラエル出身である彼女が、女性アメリカン・ヒーローを演じながら言うのだから、中々、味わい深い。このあたりの事情は、こちらの良記事を参考にされたい。【宗教リテラシー向上委員会】 イスラエルからの「メリー・クリスマス!」 山森みか 2020年12月25日

 とまあ、そんなわけで、色々なことを思わせ、考えさせてくれる映画だった。また今回は、試しにリクライニング・シートで視聴してみたが、座り心地は良かった。良すぎて眠くなる節もあった。

 ただ、惜しいのは最前列のリクライニングなので、字幕が大きく見え過ぎること、また多少は画面アス比がズレて見えることだった。このあたりは身長やら姿勢やらの問題なので、たまたまぼくがそうだったのかもしれない。字幕なしの洋画、アニメ映画なら、またこの座席で見たい。

 以上、WW84をドルビーシネマのリクライニングで見た話。楽しい映画だった。次回作が来るまでに前作をみて、また劇場に足を運びたい。コロナ禍で営業を続ける全ての映画館に賛辞を送り、今後も支えたいと思う。

 以下、あらすじの要約である。ネタバレになるので、有料化しておく。

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