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キリストなんて生まれてこなければ良かったのに…?

 コロナ禍による未曾有の不景気の中、それでも仕事に追われていられるのは有難いことだ。とはいえ、生活と日常に追われ、その上に来る読書・思索・研究みたいなところに手が届かないのは、ぼく個人にとって、あまり良いことではない。

 先日、仕事の合間に単身赴任から戻ってきた友人と世情について言葉を交わした。いわく「twitterは昔の2ちゃんねるより非道い、地獄が現象している」と。たしかに、その通りだと思う。ツイッター社次期社長には、ぜひナンチャラ「ホッブズ」氏に就任して頂き、社名も「リヴァイアサン社」に変更したらよい。

 話が逸れた。主題は「キリストなんて生まれなければ良かったのに」である。ツイッターに限らず、SNSを見ていて、素直にそう思ってしまった。なぜか。話は数百年、または数千年を遡る。

 まず500年ほど前のことを考える。あの1517年以降の「ルターの宗教改革」だ。常識的なことで申し訳ないが、念のため書いておく。思想としてのプロテスタントは、昨今21世紀になって、ようやくその「前提」を手に入れた。つまり、全員がまあまあ進化した最新のスマホを入手できるようになって、最低限の教育/識字率/検索/翻訳注釈ツールが揃ってこそ、「万人司祭」の理念は実装可能となったのだ。そういう意味では、キリスト教「プロテスタント」は未だ熟れたとはいえない、未消化の思想なのかもしれない。

 しかし何はともあれ、「プロテスタント」という思想は「個々人が聖書を読むこと」を推奨した。文字が読めなくても、高等教育を受けていなくても、売春婦であれ殺人鬼であれ、幼児であれ誰であれ、「聖書を読むこと」を奨励した。その結果は歴史が示すとおりである。読めない者が読めたと解釈し、行動したらどうなるか。それはフス戦争の犠牲者しかり、ミュンスターの千年王国の惨劇しかり、である。ついでなので引用しておく。

 1543年二月末に出現し、翌35年6月の落城まで、帝国諸侯軍の包囲下で存続したミュンスター再洗礼派王国は、古今東西の千年王国運動の中でももっとも典型的に開花したものであった。そこでは政治、経済、家族、文化などあらゆる領域にわたって、文字どおり全面的な『変革』が行われた。
 既存の一切の制度は背神のシステムであるとしてこれを廃棄し、神の預言に基づいて、政治的にはヤン・マティアスのカリスマ的支配から発し、ヤン・フォン・ライデンのダヴィデ王朝樹立にいたる。経済的には貨幣も売買もギルドも廃止され、財産共有制(共同食堂、現物支給、貴金属・生活物資の供出摘発)が強行された。
 既存の一夫一婦制も解体され、悪名高き一夫多妻制がテロの恐怖のもとに実現された。『霊が肉となった。聖者は罪を犯すことはない』として、既存の道徳的規準も転倒される。聖書を除く一切の書物文書も焼却され、街路や出生児の名前もアルファベット順に変えられた
ハインリヒ・グレシュベック著、C.A.コルネリウス編、倉塚平訳『千年王国の惨劇――ミュンスター再洗礼派王国目撃録』(平凡社、2002年)

 「誰であれ自分で聖書を読むべきだ」という主張は、その読者がテロリストであり、強姦魔であることに開かれている。それでも個人≒人格は、神に愛され罪赦された存在なのだから。

 こうして約500年前に生まれた「個々人で聖書を読むことのユニバーサリズム」は主に地中海北岸を席巻し、やがてその圏内で「民主主義、資本主義、人格」という近代社会に必要な素材が練成された。そして現在それらはSNS上でリヴァイアサンと化している。もっと言えば、レギオンとでもいおうか。

 そんな状況を哀しみながら、ふと気付く。プロテスタントの宿痾とも言うべき、この「個人≒人格≒私」の問題は、そもそもキリスト教自体に原因があるのではないか。

 これまた大雑把な話で恐れ入るが、「アブラハムの宗教」を並べてみて考えてしまう。キリスト教は言語の固有性に基づく二つの兄弟宗教に挟まれている。ヘブライ語の文字の固有性から立ち上がるユダヤ教と、アラビア語の声の固有性によって起動するイスラム教だ。キリスト教は、この二つの宗教に挟まれて、最初からギリシア語に「翻訳」し、そのギリシア語を「現地語に翻訳する」宗教であった。

 シンプルにいって「翻訳」と解釈は、ほぼ同義である。解釈することは、そのまま「意味」の問題を問うことだから、キリスト教が「意味」の宗教となったことは必然の帰結だった。すなわち、キリスト教「プロテスタント」は、「私の意味に関する宗教」である。

 しかし、そもそも「意味」や「言語」や「世界」は、本質的に「私」よりも大きなものだ。したがって、プロテスタントの弱い精神性が「捉えきれない私の意味」に振りまわされ、くたびれて自己憐憫と共に自己開示を行うしかない「私」になるのは想像に難くない。強く現れると、上記のフス戦争やミュンスターの指導者たちのようになってしまう。

 つまり「翻訳宗教であること」それ自体が、現代のリヴァイアサン、レギオンを産んだのではないか。少なくとも、その揺籃ではないのか。なれば、原因を断つにはどうすれば良いのか。

 SFとして考えれば、タイムマシンをつくって、イエスを生まれる前に殺害するしかない。しかし、それについては先行事例がある。王ヘロデは失敗したではないか。ならば、イエスが人前に現われるとき、それこそ殺害のチャンスである。

 ここまで考えて、ふと気付いて笑ってしまった。きっとタイムマシンをつくり、過去を遡り、到着すると、イエスはすでに宣教を始めているだろう。色々あって巻き込まれ、結果的に、ぼくは福音書の一場面に無名の群衆として登場し「十字架につけろ!」と叫んでいるに違いない。

 思い起こせば、人類最古の罪は「ひとのせい」だった。それは、アイツが悪い/自分は悪くない、という意味である。初めの人類たるアダム、男は神と女が悪いと言い、女は蛇が悪いと言った。エデンの園が罪で汚れた日に、キリスト教は、女の子孫イエスの到来を約束するところから始まる。

「キリストなんて生まれてこなかれば良かったのに…?」

 この想像力が、どの程度正当なのか判らない。ただ、名もなき一キリスト教徒として考える。結局、世界や社会に貢献することを願うなら、キリスト教が存在しない世界(ボンヘッファの成人世界にも似てる?)も構想すべきではないか。そんなことを思っている。あなたはどう思うだろうか。

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