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「語学」の前に知りたいグラマラス

 ぼくは語学が苦手だ。とにかく才能がない。記憶の限り、幼稚園のころには英語アルファベットを覚えたはずではなかったか。いや、たんに自画像を都合よく捏造しているかもしれない。以下、長文になるので「本文の引用」だけでも読んでいただければ、有益かと思う。

まえおき

 ぼくは、とにかく語学の才能がない。今までにうけた初級クラスは、英語、ドイツ語、フランス語、中国語、ギリシア語、ヘブライ語、シュメール語である。個人的に持っている文法書には、ラテン語と古代エジプト語がある。下手の横好き、万里の長城、恥の上塗りとは言い得て妙。昔の人は鋭い。枯れて久しい涙がこぼれそうである。

 中国語は「わたしは学生ですか?」という謎の一文を覚えて終わった。フランス語はとりあえず、フランス語で書かれていることが判るが、読めない程度。ドイツ語は文法書を頑張ったわりに、アニメの台詞をひとつ覚えただけ。本のタイトルくらいは読めるだろうか。これらは最低でも一学期はやったはずなのだが、一切覚えていない。

 ギリシア語とヘブライ語は、最盛期には辞書なしで聖書が半分くらいは読めた。少なくとも、そんな気がしていた。後者についてはシナゴグの祈りを聞いて単語を確認でき、「死海写本」現物を前に、三単語拾えたころが最盛期である。

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 シュメール語に至っては、そもそも翻字がダメで、どうにもこうにも成らなかった。ただクラスは楽しかった。自分の名前を粘土に割りばしで掘って出席としたり、国立民族学博物館の上掲資料番号の画像が上下逆さまだ、と友人と問い合わせたりした。展示係より「専門家に確認する」と返信があり、数か月ほど待った挙句、結局、出席していたクラスの先生がその「専門家」だった。遠回りもいいところで、いまでは笑い話のひとつだ。

 キリスト教徒だからか、セム語には何かしらの憧れがあって、今でも機会があれば少し頑張りたいとは思っている。当時もっと余裕があれば、努力して単位を取れば良かったと、今でも思っている。

 その他の言語だと、某海外動画サイトでアニメを見まくった結果、字幕のせいで、なんとなくポルトガル語が判った気がしたことがある。あと、最近は、海外ドラマ『SUPERNATURAL』の見過ぎで、悪魔祓い用ラテン語の詠唱に慣れてきた。

 とまあ、様々な言語を触ってみた結果、ぼくには語学の才能が皆無であることがわかった。これらの中で、かろうじて英語だけは、とりあえず最低限使えるようになった。もっとも、この英語でさえ、修士入学試験で一度、英語で足切りを喰らう程度には雑魚である。だから、とてもじゃないが語学は得意ではないし、英語も「デキる」とドヤ顔になるものでもない。まあ、お話にならないレベルと言っていい。

理解していなかった「文法」

 では、なぜ語学ができないか。なぜなら、語学以前に「文法」を誰も教えてくれなかったからだ。否、文法「用語」の説明が不十分だったのだ。たとえば「品詞」という語句がもつ意味と範囲が明確ではなかった。

 少なくとも、ぼくの経験では中学校の段階で日本語と英語における「品詞」の種類や意味するところの違いを教えてほしかった。もっといえば、最初から大きな地図を見せてほしかった。言語には対格/能格という二つの特性があること、また「語族」と呼べるような、大きな種別があること。英語と日本語は、そういう距離がある言語であること。すなわち、逐語翻訳が可能でないこと。翻訳とは、幅のある解釈であって、唯一の正解があるわけではないことを教えてほしかった。

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 いいかえれば、ぼくにとって語学とは、逐語変換すべき数式的な操作であり、それを謎の語彙で分析し、唯一の正解に辿りつかなくてはならないものだった。当然ながら、日本語と英語を逐語変換することは、本来的に無理があるし、翻訳とはそのような行為でもない。つまり、ぼくの日本語の運用と「英語≒外国語」を接着すべき「文法」自体の本質的理解が足りていなかったのだ。出来なくて当然である。

金田一京助『日本語の変遷』の感想

 以上、見るも無残、哀れで悲惨な語学遍歴をつまびらかにした。だから、今後「語学」をやることはないだろうと思っていた。しかし、最近、金田一京助『日本語の変遷』を読んで、一気に文法理解が進んだ。正直、この本に20年早く出会っていたら、人生が変わっていた可能性さえある。それほどまでに、語学が苦手でデキないぼくが悩み知りたかったことが書いてあった。いや、正確にいえば、何を理解していなかったのか、やっと理解できた。

 本書は、このように紹介されている。

アイヌ語学者として、又、教科書・辞書の編者として、広く世に知られた金田一京介の日本語論。日本語の歴史を平明に説いた「日本語の変遷」、新しい国語法を提唱した「規範文法から歴史文法へ」、日本語改革に情熱を傾けた著者の仮名遣論「新国語の生みの悩み」、音韻・文法の両面から日本語を論じた「日本語の特質」の4篇から成る。その該博な学識に裏付けされた日本語論は、国語問題が国民的規模で論じられている今日、必読の好著である。

 とくに感銘を受けたのは、第二論文『規範文法から歴史文法へ』である。要約すれば、国語教育においては規範的に記述的に教えるばかりであって、文法の持つ歴史性の解説が足りていないのではないか、という指摘である。つまり、文法とはスタティックなものではなくて、ダイナミックなものなのだ、そう教えたほうが教育効果もあるのでは?という問いかけである。

 何事でもスタティックな理解から「動態」理解へと転じるのは大変重要である。一応、学問の世界につかったはずの身ながら、そんな簡単なことがわからなかった。苦手意識ばかりが先立って、あらためて「文法」のダイナミズムに触れてみようという気は起らなかった。しかし、金田一の指摘から、やっと「文法」という語が意味するところが解ってきた気がする。

 ぼくなりに言い換えよう。つまり「文法」理解には三種類ある。まず規範的で記述的な、スタティックな理解だ。次に、歴史的な動態から説明される理解。両者ともに、ネイティブが、その共同体の中で「文法」を問うものである。加えて最後に、非ネイティブへの解説のための理解があると思う。非ネイティブが非ネイティブに「文法」を解説する場合、当然、前二者の理解を併用することになる。

 そして、この「文法」理解の見立ての中で、たとえば印欧語(屈折語系)では、法(mood)時制(tense)相(aspect)態(voice)という文法の階層構造が現れる。

 受験をサボったので、このあたりの用語がそもそも解らなかった。しかし、金田一の指摘の上であらためて調べてみると、法:moodは、その文章の目的による種類分けに過ぎない。たとえば、直接法(事実を述べる)、接続法(勧告・命令・禁止・願望・後悔など、願いや考えを述べる)などがある。

 時制︰tenseは、その文章が、現在/過去/未来のどこにあるかを示す。相︰aspectは、時制を前提した上で、その文章の内容が完了したか、未完了なのかに関わっている。態:voiceは、文中の行為者が、受け身か否か、または中態や再帰的なのかを表現している。


本文の引用

 その上で、金田一は言う。長くなるが、啓かれたので引用しよう。なお文中太字は、ぼくによる。

 今までの記述文法の、我と人と等しく遺憾に思うことは、『廣日本文典』以後、目を開いて貰った西洋文法に捉われて、国語法の真相が歪められる傾向のなおあること (中略)
 西洋諸国語にははっきり数の範疇があってのことだから、精確に説かれるのに、我が国には元来、数の範疇など文法上に存しないのである。それを強いて叙述しようとするから、よくできないで、結局、国語法の不精確さを印象づけるに終る。時(テンス)も同様である。(中略) 時(テンス)などは強いて説かなくってもよい。国語では、むしろ動作態・法を説くべきである。
 文法は普遍的事実すなわち法則であるが、同時に文法は民族文化であるから民族の個性によって成立する (中略)
 第一、八品詞・九品詞・十品詞というあの品詞の分け方は、国語の固有の単語分類を排して、向こうの衣類を取りつけたものだった (中略) 西洋語では (中略) すなわち『品詞、即、単語』であるからよろしい。漢文も大体同じように行く。(中略) ところが、日本語では(トルコ語・満州語・朝鮮語も)言語表現を分割して到達する単位は語節であって、単語そのものではない。すなわち、助辞の附いたり附かなかったりする所の単位に到達するのである。 (中略)
 文の定義なども、主・述のあるのを完全文とする考えは、向こうの動詞の性質に基づいたものであるが、こちらの動詞は違う (中略)
 また西洋文法で触れないから、我が国でもあまり触れないが、敬語法のことは、国語の個性に関するからぜひ触れたい。文化の進むにつれて (中略) 絶対的敬語法から相対性敬語法に発達したのが、国語における敬語である。(中略) 相対性敬語法になると、自分の夫や父のことを話すにしても、話す相手が身分の高い人だと、夫や父への尊称・敬称をつけずに、かえって卑称をさえ用いる。そこがすなわち相対性であるゆえんである。 (中略) ていねい形(恭称)の語法というものがあるに至って (中略) これによって『対称』と『自称』とを分化し、さながら人称法の役割をも果すのである。(中略)
 文法というものも、一概に考えられるような乾燥無味な仕事ではなく、時としては、全く詩人のような豊かな感情、女性のような繊細な敏感をもって、初めて味識され、初めてその真髄が発揮されるのである。(中略) よき文法書とは (中略) 芭蕉のような、紫式部のような、また人麻呂や赤人のような人々の作を拘束する規範ではなしに、それらの人々の作に対してはむしろその表現の本当の味を味到する指針としての規範である...

 すなわち、文法とは、それぞれの言語的国境線の内部で活動するダイナミズムである。「国語」文法を他言語の説明を以て組みたてることには限界がある、という話だ。

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 金田一は、第二次大戦下の第三論文『新国語の生みの悩み』で、仮名遣論をとりあげ、いわゆる「国語国字」問題を考えている。第四論文『日本語の特質』では、奈良時代以前の日本語に八つの母音があったことを記紀万葉より明確に指摘し、そこから日本語がウラル・アルタイ語系であると論証している。その上で、日本語にもっとも近いアルタイ語を朝鮮語だと提示しながらも、その差異が南方系の「開音節」にあるという。こうして「日本語」の来し方行く末を思う前提に、やっと辿りつく。

 日本語の悠久な古さを考えに置くよりほかには解釈のつけようがない。この島に渡った日本の古さは、原始インド・ゲルマン八千年ないし一万年と考えられているよりも、もっと古いデイトをもつ、そういう永い間にこの日本語の特質が成形された (中略) このデイトを、幾らかでも縮めて行くのは、今後の両国語の精密な比較研究の進歩があるのみである。

 金田一京助『日本語の変遷』は大変な名著だと思った。もっとも現在の言語学/国語学の水準から、どの程度まで批判され克服されるべきなのか、ぼくには不明である。ただ、義務教育では寝てばかり、高等教育以後もサボることしか考えていなかった基礎教養の抜けた、マヌケなぼくには、この本は「文法」のみならず「日本語」について、確かな一つの見方を与えてくれた。

国語か、日本語か、問題

 ところで、思想史家・子安宣邦が「日本語」について興味深いことを指摘している。彼の『日本近代思想批判』1-3 において『「国語」は死して「日本語」は生まれたか』が問われている。委細は各人の読書に譲る。ただ子安の見立てに、ぼくは納得した。

 要約すれば、「国語」とは近代国家を前提にした概念である。つまり、明治以降に表面化した問題なのだ。それは、大東亜共栄圏を目指す東アジアの盟主「近代日本」の登場とともに「日本語」問題へと変わる。

 当時、台湾も朝鮮も日本であった。ならば、いわゆる朝鮮語や台湾語は、日本語なのか。または国語なのか。つまり、「国語」がリンガ・フランカとなるために「日本語」になる必要があった。ときの政府と役人らの綱引き苦心の結果、列島外の諸言語は「方言」と言い換えられた。

Glamorous Grammarous

 「複数の言語、超越、文化を持つ諸民族の権利再配分と利益調整」が近代の定義であるならば、大東亜共栄圏における国語と日本語の相克問題こそ、日本の近代化の確かな一面だった。結果はご存知のとおりだ。

 国語/日本語とは何か。この問いの先にこそ、ぼくらの「文法」が見えてくる。それは「膠着語」という、人類に普遍の一つの記号操作の形式として、ぼくらが立つ太平洋弧から遠く広くユーラシア大陸を横断しウラル山脈を超えて北欧から大西洋へと至る。語学の前に、こんなグラマーで芳醇な、grammarousな世界があることを教えてほしかった。下手の横好きをやめなくてもいいかもしれない。

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