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主体性と神の召し

 仰々しいタイトルで面食らう人もあるだろうが、たいした話ではない。ここ数年、ずっとキリスト教的な「主体性」について考えてきた。平たくいえば、それは「神の召命」から始まる話だった。

 今だから言う。じつは、ぼくは神の実在・キリスト教信仰・聖書について疑ったことは一度もない。ぼくにとって、これらは外に出れば道路があるような確実さの問題なので、わざわざ疑わない。

 たとえば、ささいなよくある日常を過ごした後で眠るとき、明日、玄関の前の道路が陥没することが心配で眠れない人は、あまりいない。もし不安に思うなら、その人は適切な休息を欠いているし、病院にいったほうがよい。

 つまり、ぼくは「明日、玄関前の道路が突然崩れる事態を想定しない」程度の確度で、神を信じている。いいかえれば、今日もアメリカにはNYがあり、太平洋のどこかではクジラが泳いでおり、月が回り、太陽が燃えているのと同じ程度には「神についての確かさ」を信じている。

 プレートテクトニクスは地球平面論から球体へ、球体の動態理解へと進むにいたる画期的な進歩だった。ぼくはこれらについて教科書レベルでしか知らない。同様に、神とその御業についても、ざっくり翻訳聖書に書かれてある程度しかわからない。しかし不明であることは、ぼくを不安にしない。

 だから、昔から教会関係者とは話が合わなかった。ぼくが問題にしていたのは、いつもぼく個人に対する神の固有の「召し/召命」だった。現代的、哲学的にスノッブに言い換えれば、それは「人生の意味≒与えられた役割」の問題ともいえる。しかし、神の召しは、個人の人生の意味や機能の全体などを遥かに超えているから、「意味」に置き換えるだけでは不十分である。

 振り返ってみると、改革派教会とその神学に惹かれた理由も、無意識に固有性よりは普遍性を求めていたからだ。固有性の自覚は責任の根拠であり、召しの前提になるからだろう。要するに召しにビビっていたので、固有性よりも普遍性を強調する教会や神学を好んだのだ。

 もちろん、固有性なんてものは結局誤差のようなものだし、普遍性なんて僭称するものでもない。とはいえ、やはり普遍性と固有性は、この世界に存在していると考える。理論的には、創造主なる神の内的構造としての「一と多」の反映だ。

 さて「神の召し/召命」の問題である。ぼくは、ずっとこれを普遍性としての神学から否定したいと思っていた。しかし結果的に経験として、自覚としては否定することでより深めることになった。

 先に結論をいっておけば「神の召し/召命」は事実として存在する。まず何よりも明らかなことは「各々がいま生きていること、それ自体」が召命である。これは、いわゆる牧師という世俗的な宗教家になるための気分の話ではない。つまり「特定の職業への運命」とは意味が違う。

 考えなくても分るだろう。そもそもキリスト者の人生の意味は、神のものであって、我々のものではない。だから、ぼくらは生まれて死んで、神の顔を見るまでは人生の意味は分からない。否、たとえ終末がきた後でも分からないかもしれない。ヨブのように知ろうとする傲慢だけが浮き彫りになり、彼のように、神にまみえたことだけが満足をもたらすのかもしれない。

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 では固有の召命とは何か。それは、ぼくらの「神から与えられた人生に関する誤解」である。平たくいえば、気のせいなのだ。しかし、神はそれをどこまでも楽しみにしているように見える。そこは不思議としか言いようがない。

 前提から話をしておく。キリスト教の歴史的動態は「増殖」である。アニメ怪獣惑星ゴジラにおける「メカゴジラ」のように増殖していくのが、キリスト教なのだ。正確に言えば、カルケドン信条・四つの否定辞の反転、キリスト論から聖霊論に転換する際における教理学上の観測結果である。

 すなわち、キリスト教は、歴史においては、ひたすら混合・変化・分離・分割しながら増殖していく。そういう形で神性は、歴史と相互浸透するようになる。では、その「歴史」の中で、キリスト者の個人に与えられる固有の召しとは何か。いいかえれば、キリスト教的な主体性とは何か。

 それは、塩梅/按配に関する覚悟と決定、または意思である。神性と人性が混合・変化・分離・分割し続ける「歴史」の中で、福音と文化をどれくらい混ぜて、この程度は変化させて、または分離させて分割させて、しかし、その先でまた混合・変化させ......という信仰の道行きこそ、キリスト教的な主体性である。

 つまり求められているのは、言い訳がましい奇妙な個人的一貫性ではなくて、その時々の判断と理解に基づいた「祈り」である。では、祈りとは何か。祈りと願いの違いはどこにあるのか。

 大胆にいえば、祈る者は言い訳しない。そして、祈りと願いの違いは仲介者の有無である。つまり言い訳せずに祈ること、じつは、これこそ、キリスト者の主体性であり、神の召命の実態である。

 もちろん自分を特定の職業や性交の相手へと呼ぶ神の声もあるかもしれない。しかし、その実は、歴史における自分なりの塩梅を決めることにほかならない。決めた地点から、混合、変化、分離、分割し続けていくこと、その中で「祈り」という形で、神に意思を表明することが、キリスト教的な主体性である。

 そして自らの意思を表明すること、つまり主体性は、このように表現される。

天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光はあなたのもの。アーメン。


 こうして西洋近代自我、民主主義的主体とは異なる、弱い主体――それは隣人と呼ばれる――が起動する。自らを神の唯一性に重ねて騙るのではなく、被造物に埋め込まれた多様性の開花として語ることが始まる。互いの混合・変化・分離・分割の道行を喜ぶ祝祭の心、無数の祈りが狐火のように人々に蒼く灯り始めるのだ。

 観測する以上、神は、どうやら、その混合・変化・分離・分割を楽しんでいるかのように見える。喩えに過ぎないが、聖霊の炎を囲んで回って踊り始める生者と死者、いわば盆踊りのような光景がそこに見える。

 そして、ぼくらは気付く。歴史を踏みしめながら、無数の仄暗い蒼い灯りに照らされる互いの顔と死者の記憶、その中心に燃え盛る巨大な空っぽの十字架が立っていることを。また、相撲をとったヤコブのように、ぼくらは神の声を聴く。創世記の記述と現実の境が曖昧になる。

其人
夜明んとすれば我をさらしめよ
といひければ ヤコブいふ
汝われを祝せずばさらしめず と

 主体性と神の召し、それは、主の祈りのごとく弱い者の嘆願であり、同時に、神と人に戦って勝つほど貪欲で戦闘的なものである。それをどこで発揮するかは、まさにそれぞれの塩梅に委ねられている。盆踊りと相撲が終わり、夜が明けそめるころ、浜辺でどんな塩加減と焼き具合でイエスに朝餉を供するのか、その塩梅がぼくらの主体性である。

 長寿と繁栄を。

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( ´∀`)何か遺言めいた文章になったので、死なないように気をつけます。

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