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キリスト教について

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「キリスト教理解」の理解について
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#神学

神の五指としてのキリスト教

 キリスト教とは何か。多くの日本人にとって、難しい問いだと思う。質問も答えも、立場によって少しずつ異なる問いかけだ。おそらく一般的には、キリスト教の印象は、まず「結婚式」、次に「エクソシスト」などのオカルト関係になるだろう。または荘厳な礼拝堂や絵画だ。つまりサブカルチャーの背景文化として思いつくものがキリスト教だ。それ以外は「欧州の宗教」だとか「イスラム教と仲悪いの?」とかにとなるだろう。  キリスト教とは何か。多面的な問いだから、答えも複眼的になる。  歴史的には「五大

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遍路歴程:A Pilgrim's Progress

 20年前の旧交が戻ってきた。互いに大人になったから、なかなか時間が合わない。それゆえ旧友のため、ここにぼくの天路歴程を記す。たかが20年ぽっちの敬虔と研究の挫折、その痕跡。準備不足のまま厳冬期のエヴェレストに挑んで、そのまま氷漬けになった誰かのミイラが示す、デッドエンドへの道標。本記事タイトルが「遍路歴程」と名作との一文字違いな理由は、不朽の名作になぞらえるのは面映ゆいのと、日本人だから宗教的探求の名は、やっぱりお遍路かな…と思ったからだ。  以下、旧友以外にどんな需要が

即断即決のワナ

 不惑を過ぎて、随分と自分が「即物的になった」と感じている。たとえば自分が見聞きしてきた神学や信仰に関して、すでに粗方は分析とパターン化と納得が済んでいる。だから新しいと云われるもの、または騒がれるようなものに対して、何も感じなくなった。  よくいえば成熟であり悪くいえば感性の磨滅。人間はこうして老人になっていくのか…と、ひとり納得している。  最近もネットで流れてきた記事を見かけて即断即決してしまった。「宗教」「神」「救い」「神学」など、これら厳つい用語を使いながら、著

「主体性」の跡で

 毎年、その瞬間が来るまで忘れている。そして思い出す。待降節だ。子どものころ、自分の背丈ほどあるクリスマスツリーを飾りつけるのが好きだった。今でもカラフルな電飾があると目がいってしまう。鉄骨で作られ抽象化された三角なだけのイルミネーションよりも、針葉樹模型に原色ライトのコードを巻き付けたツリーのほうがよい。  12月19日、自身の誕生日を迎えるせいもあり、この季節をソワソワと楽しみに過ごしてしまう少年期だった。誕生日のあとにはクリスマス、一週間後には正月――祝祭に次ぐ祝祭、

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やっぱり駄目だと思う

 何の話か。学会発表の話。  ぼくは博士課程在学期間の8割を兼業しながら行った。また満期退学後も、ほぼ一年間をフルタイム労働に費やしてしまい、研究が微塵も進まない期間があった。結果、研究に割ける時間はあまりなかった。指導教官が退官し、他の大学へ移る際、最後の指導にいたっては3月にお願いするハタ迷惑なことになり、さらに提出した内容は最低だった。後味の悪い幕切れとなった。  もっとも教授と学生の関係は「指導」という怜悧なところもある。だから猛省のち、新たな指導教官に反省を反映

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主体性と神の召し

 仰々しいタイトルで面食らう人もあるだろうが、たいした話ではない。ここ数年、ずっとキリスト教的な「主体性」について考えてきた。平たくいえば、それは「神の召命」から始まる話だった。  今だから言う。じつは、ぼくは神の実在・キリスト教信仰・聖書について疑ったことは一度もない。ぼくにとって、これらは外に出れば道路があるような確実さの問題なので、わざわざ疑わない。  たとえば、ささいなよくある日常を過ごした後で眠るとき、明日、玄関の前の道路が陥没することが心配で眠れない人は、あま

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いましばらくは荒野で מדברとדבר

 生活に追われていると、心が渇く。知的好奇心が乾燥してミイラのようになっていく。そんな中、友人と話して、再び少し水を得た。折しも火星探査機「忍耐:perseverance」が無事に着陸したとのニュース。  初録音という火星の風の音、画像処理されて美しく加工された火星の360度パノラマに息をのんだ。1969年7月20日、月面に人類が到達した日の喜びをぼくは知らない。きっと、こんな気分だったのだろう。そう思った。  友人との会話の中で、ふと荒れ野に関する話を思い出す。教会など

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トンビと鼠とキリスト

  著名な児童文学作家で、谷真介がある。相当な数の作品を発表しているが、彼の仕事のひとつに「キリシタン童話昔ばなし」がある。おそらく、その仕事の集大成、または基礎となった著作が、新版『キリシタン伝説百話』(新泉社、2012年)である。  控え目にいっても珠玉にして出色、最高峰のキリシタン文学短編集だと思う。本書が収録するのは、日本土着の民話とキリシタン伝承の融合した諸伝説である。一話毎に感想を綴りたいほどに美しい。誤解を恐れずにいえば、これこそ、日本語で書かれた福音書と言っ

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聖書を聖書によって読むこと

 「ユダヤ教の聖書の読み方ーー詩篇とヨブの祈りーー」という、約4万字に及ぶ論考がある。出版は11月。幸いにも先日、この論考を事前に読む機会を得た。というか、編集者に渡す前の段階で校正した。執筆者は、ユダヤ文献学・ヘブライ思想の専門家・手島勲矢。ヘブライ大学、ハーバード大学を経由したユダヤ文献学の碩学である。ぼくにとっては3人目のヘブライ語の恩師だ。  この手島先生の論考が素晴らしかった。具体的な内容については、論考の出版に譲りたい。しかし、あまりにも素晴らしかったので、ご本

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聖書主義へのレクイエム

 日本人で「聖書主義」という単語を知る人はあまりいないだろう。耳慣れない言葉だと思う。だから、多くの日本人にとって、今からぼくが述べる「聖書主義」に関するアレコレは、不要なぼやきとなる。  では「聖書主義」とは何か。要するに、キリスト教神学なりキリスト教思想なりにおける専門用語である。平たくいえば「旧新約聖書66巻は、信仰と救いにおいて完全な神のことばである」という「聖書」に関する主義主張、イズムだ。  以下に述べることは「キリスト教学」においては当然の前提であるし、同時