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私が文章を書く意味なんてない

最近、とんと文章を書いていない。
文章を書くことが趣味で生業で生きがいであるはずのこの私が、とん、と、書いていない。

筆が進まない。恐ろしいほどに。
以前は考えもしなかった「私が書く意味」を考えるようになってしまって、私の中にいる私のことを嫌いな私が言ってくるんだ。

「書く意味なんてあるわけないだろう」
「おまえが書かなくても他の人が書くのだから」

特に、福島原発に行った件。
行く前は、レポートをまとめる気満々だった。

なのに、一文字も書けていない。
現場で書いたノートのメモで終わっている。

だって、一緒に視察した方々があまりにも著名な方々ばかりだったから。

私みたいな知識のない人間が今更書いたところで何か意味があるのだろうかなんて考えてしまって。

少し話は逸れるが、私は原爆三世だ。祖母が長崎原爆の被害者だ。だから、原発視察に行く際は、それに絡めた質問をしようだなんて考えていた。(実際に質問した。大した回答は返ってこなかったが。)

それよりも私は、イエローゾーンと呼ばれる放射線が多いゾーンで具合が悪くなったことが恐ろしかった。
動悸が早くなって、気分が悪くなって、めまいがした。
「ここは数値が高いところだから」と聞かされる前からそういう症状が出ていたから、プラシーボ的ななんらかではない。

私はそのとき、自分の本能が放射線の恐ろしさを覚えているのだと感じた。
親の記憶はある程度、子に受け継がれるという。人を怖がる猫の子が人を怖がるように、逆に人を愛している猫の子が人を愛するように。

だから放射線というものの存在は、本当に恐ろしものだと思った。けれど。

「勘違いじゃないの」

たったひと言、それを言われただけで、途端にすべてが勘違いのように思い始めてしまって。

「霊感的な第六感的な?」

そう言われたらそうなのかもしれない、なんて思い始めてしまって。

じゃあ私がこれを書く意味ってなんだろう。確かに感じためまいは勘違いで、だとしたら、私が書くことって、書かなければならないことって。

原発のことだけじゃない。社会問題とか、創作とか、コラムとかエッセイとか、私が書く意味って?

そんなことをぐるぐる考えているうちに、視察に行ってからひと月も経ってしまった。

書く意味なんてあるはずがない。自分が書きたいから書くだけなのだから。そういう実体のないものに囚われて書けなくなるなんて、物書きとして情けないとすら思う。

なので、リハビリ的にnoteでブログを書く回数を増やしていこうと思う。

スマホからの殴り書きなので読みにくいだろうし面白みも何もないかもしれない。けれど、私はまだ書いていたい。

私の文章は必ず誰かの心に刺さるから。

なぜかこの自信だけは書けない時にでも揺るがなかった。じゃあやっぱり書いた方がいい。そういう気分。

仕事ではなく義務ではなく、書くことを楽しんでみようと思う。久しぶりに。

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