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注意を向ける

注意という概念は心理学の専門家のあいだでもずいぶん難しく、また曖昧に使われがちな概念だという話をきいたことがある。

ただ、注意を何かに向けると言ってみても、なんだか同じことを三回繰り返している気さえする。なぜならば、ただ注意すると言おうと、注意を向けると言おうと同じ意味になるし、注意という言葉にそもそも何かを指向するという意味がはじめから入っているからだ。したがって、注意を何かに向けるといった表現はせいぜい丁寧な言い方であるだけで、意味を分析しているわけではない。

また、注意を向けるというが、それは複数の宛先からひとつの宛先を〝選択する〟という種類のものなのだろうか? そうではないだろう。なぜならば、もしそうだとしたら、あらかじめ複数の宛先に注意できているのだから、そこからひとつに宛先を絞る行為はむしろ「集中」といった別の名前で呼んで区別すべきだからだ。そして、ただ注意を向けることと、集中することとは異なるからである。少なくとも程度には差があるように思える。

注意と集中を区別するとすれば、注意を向けるということを注意先を選択するとは言いにくくなる。というのも、ひとつひとつの対象に注意を向けて比較してから、適切なひとつを選択するというのは注意のあり方ではないからだ。それは自覚的な一連の行為であって、注意することはそれらの諸行為から成る集合の要素となるようなもっと細かいことだからである。

注意の宛先になり得るような知覚や観念がまず与えられるが、それらはまだ自覚的なものではなく、図と地に分かれていない段階があると考えざるを得ない。なぜならば、そのような広がりがなければ、注意し損ねるとか、うまく注意できているといったことは起こらないからである。注意によって何かが絞り込まれるのだが、その何かは注意以前の対象であるため、何であるとも言えない。それが言えるタイミングはそれへの注意が成立し、注意されていない対象も背景としてなおハッキリした後のことである。

我々は筋肉を使って感覚器官を一定の方向に向けたり、外部からの刺激に反応することができる。しかし、感覚器官を一定の方向に向けたからといってその先にある何かに必ず「注意」するわけではないし、外部から同じ刺激があっても反応する人もいればしない人もおり、反応するタイミングもあれば反応しないタイミングもある。もちろん全く姿勢や刺激から制約を受けないということはないだろう。なぜならば、そうでないと大人が子供に共同注意のような作業を使って何かを教えることが不可能になってしまうからだ。しかしそれでも、多かれ少なかれ注意は姿勢や刺激から解放されている。

注意を動かしているとき、我々は自分が何を動かしているのかわかっていない。腕を動かしているときだってそれはどういう動作なのだと自覚していないかもしれないが、注意はもっとワケのわからないシロモノでありながら、なお我々自身から引きはがせない自由の源泉なのである。
(1,227字、2024.03.04)

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