仏教の経典に「指月(しがつ)の譬(たと)え」という比喩が掲載されているときく。この比喩(あるいはコトワザ)はわかりやすく便利なので私もよく使うのだが、ネット上には私の考えたい方向でまとめた記事が見当たらない。だから、自分の参照用にここに関連する情報をまとめておきたい。
比喩の趣旨
この比喩あるいはコトワザで「月」はなにか大切なもの(=真理、仏教においてはダルマ)を表し、「指」はそれを指示するコトバ、記号、象徴を示している。「指」は「月」を知るために必要なものではあるが、「指」それ自体が最も大切なものであるというわけではないから、「月」を指示しているのに指示する「指」に注目する(あるいは指自体を真理だと思い込む)のは見当違いだという趣旨である。
私の解釈
一次的に重要なものは「月」(真理)であり、「指」(言語)の重要さは二次的なものである。
指導者と生徒
例えば、指導者が生徒に真理を教えようとする場面を考えてみよう。指導者は生徒に真理そのものを文字通りに手渡しして継承させることはできない。なぜならば、真理は高度に抽象的なものであり、例えば「一」や「善」や「神」や「魂」や「他者」や「宇宙」といった概念かもしれないが、このような概念は経験を超越しているため、実物を見せたり体験させたりすることはできないからである。
だから、どうにかしてコトバでそれを教えるしかない。ところが、指導者は同時に次のように言わないわけにはいかない。「私が今言ったことは真理を指示するガイドに過ぎない。私が今言ったことは真理そのものではない」「経験を超越して大事なXを知りなさい。しかし同時にこの私の言葉を棄てなさい」と。さらに切り詰めれば指導者は「私の発言を否定せよ」と述べているわけである。これは生徒からすれば、矛盾であり、なおかつたいへん無責任にもきこえる。
指導者はまず第1段階では経験を超越して真理を知るための言葉を発話し、次にこの「指月の譬え」という第2段階ではその言葉を超越するようにと2段階の超越を指図するのである。つまり、いわゆるハシゴ外しだ。しかしこれはジレンマを引き起こす。というのも、一方で、この二重超越はコトバの意味をひどく曖昧にしてしまうし、他方では、だからといってコトバの意味あるいは指示対象を明晰にしていくならば、明晰化とは我々の経験の内側で図式(記号の羅列)を整理整頓したり物体同士の関係にそれを帰着させる(つまり経験内在化)ということだが、それではまさに「指」の世界から抜け出ることができないからだ。
名前と指示
また、「指」が「月」を指せるのか?という問題は名前(固有名)が指示対象を指示できるのか?という問題にも通じていると考えている。「指」は指示というよりも「志向性」「意図」だと考えた方がよいかもしれない。
出典の詮索……
「指月の譬え」の出典は『大智度論』、「月を指せば指を認む」の出典は『楞厳経(りょうごんきょう)』であるという。また、「見指忘月」や、対義語として「月を見て指を忘る」があるという記述がネット上に散見される。
『大智度論』からの引用があるものの、具体的箇所は不明な記事として下記を発見した。
引用検証サイトにて「私は月をさす指に過ぎない。私を見てはならない。月を見なさい」の言葉をブッダに帰すのはフェイクであるという訂正がおこなわれている。『楞伽経』(ランカヴァターラ・スートラ)について言及がある。
上記英語記事のコメントによると、アウグスティヌスは『キリスト教の教義について』の序文で類似の比喩を使っている。該当する箇所を切り出しておいた。