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情緒の自覚 realizing the emotion of yourself

失感情症(アレキシサイミア)という病気?がある。感情 passion を喪失しているという字面からは感情が無いとか無感覚もしくは鈍感のような印象を受けるかもしれないが、そういうものではなく、実際は感覚も感情もあるのだが、それを立ち居振る舞いとして表現したり表情や口調に出したり自覚することが困難な症状のようである。実際、私は失感情症の診断を受けたという当事者の方と交流してみて、常に平穏で冷静な印象を受ける(いったい何をどうしたらこの人が声を荒らげて怒るのか想像もつかないといった具合)にもかかわらず、稀に不当な扱いを受けたときに平穏な口調のままでいつもより長く話し続けたり泣きながら冷静に整然と話すような(まるで天気雨のような)チグハグな印象を受けることがあった。言い換えれば、感情表現が屈折しており、絵文字のようにわかりやすいものに成らないということになるのだろうか。

私自身は自閉症 autism spectrum disorder の診断はあるものの、失感情症の診断は持っていない。しかし、誰かとコミュケーションした後に、自分の態度を振り返ってみて、「なんであんなに声が大きくなっていたのだろう? なぜあんなに長話をしてしまっていたのだろう? なぜ同じフレーズを何度も何度も不必要に繰り返してしまったのだろう? なぜ人の話に割り込みがちになっていたのだろう?」と自問してみることで、やっと、「どうやら自分はひどく興奮していたようだ。それはつまり、わかりやすい言葉で言えば、イライラしていた、腹が立っていた、頭に来ていたということだ」と自分自身の感情を自覚して言葉に〝翻訳〟できることがある。

私は知的 intellectual でありたいと同時に気概 brave も持ちたいと願っているが、実際には知性は少なくむしろ感情が先行する方なのだと大人に成ってからずいぶん経って気づいた(いつも、気づくのが遅い。遅すぎる)。それに加えて、自分の怒りについてもどうも何種類かあるようで、「腹が立つ」と「頭に来る」は結構違うんじゃないかという仮説を持っている。というのも、仮に相手に「あなたは怒っているのではないか?」と指摘されたとして、もし「頭に来ていた」らそれを自覚して「そうとも、確かに怒っている」と言えるのだが、腹が立っているときはむしろ「怒り」は腹にあって頭に無いので「怒っちゃいない!」と答えてしまうだろうからだ。もちろん、実際にはどちらも「怒っている」ことの一種だと再定義すべきであろう。

思い返せば、子供の頃からカンシャクを起こしては大声を出したり泣きじゃくってばかりいたが、それに情緒として適切なラベリングをすることはニガテだった。だから、当時の私に「お前はカンシャクを起こしているだけだ」と言っても反発しただろう。私のように感情の自覚がニガテな人間は、自分の内観よりも立ち居振る舞いから自分自身の現在の感情を逆に推定して振る舞うようにした方が自分自身とも相手とも円滑に付き合っていけるようになるだろう。

(1,256字、2023.12.23)

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