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固有名の豊かさ richness in proper name

何が現実であるかを示す目印(特徴、規定、内包)があるだろうか。それは何もない。なぜならば、例えば何らかの法則性に適合しているかどうかや、無矛盾であるかどうかが候補にあがってくるだろうが、それらは我々の認識に関わることであって、それが現実であるかどうかとは独立だからである。だから、どんなにメチャクチャであってもそれが現実ならそれが現実だということだ。別の言い方をすれば、現実の目印はそれに固有な特徴が無い、あるいはすべての特徴が偶然的で必然的な特徴が何もない……という特徴だということになる。

この「必然的な特徴が何もない」を私は固有名詞に当てはめてもよいと考えている。「アリストテレス」や「シェイクスピア」という文字列について考えると、それは歴史上の人物名であり、歴史研究によってその特徴の集合体(=人物像)は次第に変わっていく。しかしそれだけでなく、人々は人物以外を「アリストテレス」や「シェイクスピア」と呼ぶ。例えば彼らが書いた著作群をそう呼ぶし、新しい地名や事物、動植物や人間に名前を与えなければならないときにそれらを使うこともある。

固有名詞と結びつけられる指示対象や連想対象はこうして無限に育ち、繁茂していく。現代的な言い方をすればミームがコピペされ改変されて広がっていくさまもそれに相当する現象だろう。固有名詞は何にでも、といっては言い過ぎなのかもしれないが、とにかく隣接するものや連想できるものを通じて何にでも結びつくという特徴を持っている。言い換えれば、固有名詞に固有に結びつくものは何もないとすら言える。それは例えば、聖徳太子という固有名詞があるからといって聖徳太子が実在しなかった可能性を排除できないし、反対に聖徳太子が実在しないことが判明しても、相変わらず聖徳太子を使った会話を我々は続けることができるからである。

可能性として固有名詞が何にでも結びつくとは言っても、或る時点の現実にはそれぞれの固有名詞が一定の空間を持っていて、それらは可変であり増減するものの有限である。我々は固有名詞を唱えることによって、なにかその一定の空間のなかに入っている財宝の一部を取り出すことになる。

例えば友人との会話で「最近、太宰治を読み直しているんだ」と言えば、「太宰治」という固有名詞を会話に持ち出したことになる。私はそこで太宰治の特定の作品名や作品分析、彼の生い立ち、文学史における位置づけなどを話したり話したがるかもしれない。それはかなり固い話題である。一方、会話相手はもっと柔軟かもしれない。太宰治のような昔の文学者は放漫であったとか、太宰治の有名な作品である『人間失格』が今の若者に売れているとか、文豪を取り上げたアニメで太宰はこんなキャラになっているとか、太宰府天満宮の話をするとか、太宰治の太宰はハイデガーの用語と関係あるのか?などの連想も用いた話をするのかもしれない。

私が出した話も友人がそこから連想して出した話も「太宰治」の話である。つまり、我々はそこで「太宰治」という国民的作家の名前を手がかりに、我々が所属する共同体の共有財産から一袋を取り上げ、そこから幾つかの宝石を出して眺めてみたというわけだ。そしてこうやって眺めてみることで新たな財宝がその固有名詞という袋に付け加わる。我々の共同体の文化はこうして、固有名詞それ自体が語彙数として増加するわけではないけれども、豊かになっていくのだ。

(1,406字、2023.09.12)

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