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罪刑法定主義 Nulla poena sine lege

我々の国では法令はほとんど官僚が作成して国会で議決される。そして、もちろん法令は一般に一定の構造を形成している。我々民間人は法治国家で安全に生きようと思う限り、その法令に沿ってあらゆる行為をおこなっている。

しかし、その構造が具体的な行為の合法性あるいは違法性を完全に保証または予測するかどうかには良くも悪くもスキマがある。言い換えればグレーゾーンがあり、素人目には同類の行為にみえてもあのケースでは合法、このケースでは違法に分かれるような部分がある。ここでいうスキマとは現場で担当者となっている官僚が、民間人の行為をその「実態」によって判断する余地があるという意味である。

例えば、民間人が行為を既存の法令にしたがっていくら特徴づけを進めて具体的な構造(例えば契約書を作成するなど)をこしらえようとしても、担当者の官僚が「実態」は異なるだろうと判定したら、その構造は法令で規定された合法的な類型に当てはまらないことになる。つまり、ここで構造がどれほど法令上の特徴を満たしていたとしても、法令には必ずスキマがあり、それを査定する調査官の裁量によって「実態」は違法または法外なものであると判定されると、そのリアリティはひっくり返されてしまうわけである。言い換えれば、法令上の構造と機能をいくら満たしていたとしても、調査官によってその「実態」について承認を得るか、もしくは黙認してもらわなければ、最終的な合法性を獲得することはできない。それで「実態」が違法なものだと言われてさらに異議があれば、それは行政訴訟によって司法権力が「実態」をさらに判定することになる。いずれにしても、最初に制定された法令を民間人がいくら目を凝らして眺めて調べてみたところで、「実態」を判定する権利は現場の調査官もしくは裁判官に委ねられているのである。

しかし、「罪刑法定主義」や「租税法律主義」とは、刑事罰や課税の標準は必ず法律で定められなければならないという原則を意味しているはずである。だが、仮に実際に厳格に定められているならば、究極的には裁判官も税務調査官も不要なはずである。民間人が標準をしっかり守っているかどうか、計測器にかけてOKなのかNGなのかを判定させればよいだけだ。しかし、実際にはそうではない。

以前の記事では、学問とは研究対象の構造や機能を分析するものだと言ったが、実際のところ、法令のようなハードな対象ですら、構造や機能を分析するだけでは不十分であるということをこのことは意味している。いったいぜんたい裁判官の「心証」や税務調査官の「裁量」とは何なのであろうか? それは悪質な不正を防ぐために必要なのだろうか? それとも誰かを犯人としてアゲて溜飲を下げるために悪用されているのだろうか? その構造や機能に還元されない部分があることでメリットがデメリットを上回っているのだろうか?

それ自体非常に疑問であるが、我々の社会、集団、組織がそのようなあやふやなものによってそこそこ運営されていて暴動や反乱に発展していないというのは不思議であり幸運なことである。

(1,271字、2024.06.10)


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