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超越者からの愛; あるいは超越性としての超越性

超越者は超越的である。すなわち、世界あるいは現象の「内側」で観測され概念化される類と種差(分類)に対して言わば「外側」に位置づけられる。外側にいる超越者が経験(=知性によって区切られた感覚)を可能にするとき、そのような超越性のあり方を特に「超越論的」と呼ぶ。

私は「超越論的」という哲学用語の意味が長年腑に落ちなかったのだが、まずは分類に対する超越者を考えて、そこから超越者が世界や世界内の存在者に対して影響を与えている状態だという順番で理解すると、私には今のところもっともしっくりきた。超越者は超越的であって、世界から影響を受けないし、世界から独立している。しかしだからといって世界に影響を与えないわけではない。むしろ世界全体に影響を与えている。言い換えれば、一方通行である。また、世界の一部ではなく全体に影響を与えてしまっているために、その影響を直接世界の中の一部の規定に帰属させることもできず、影響は透明化されている。

超越者が超越論的に見られるとき、それは世界を制約する者である。寓意を広げてみると、これは旧約聖書の処罰する神のようである。一方、この創造神は旧約聖書と新約聖書のあいだでカウンセリングを受けたようで、新約聖書において神は普遍的な慈愛を持った神として現れる。このような超越者は世界を相変わらず制約するが、同時に世界の成立を可能ともしている。このことを「愛」と呼びたい。

超越者からの「愛」は矛盾として現れる。課題としてはそれが矛盾という理解不能な形態で現れることではなく、至る所に現れることだ。そのどれを特別に取り上げるかによって人々は争ってきた。

例えば、神学者アクィナス的には神から一方通行的にエッセ esse が提供されることが善であり愛である。一方、善から最も遠い最悪とは無である。

しかしながら、私自身は超越性(外在性)はありとあらゆる存在者の根底に眠っているものだと予感しており、そうであってほしいと願っている。これはただの願望だ。願望ではあるが、もしそうだとすれば、中世の神学者たちが想定したように、超越概念は到底6個か8個程度特徴づけによって言い尽くされるものではないはずだ。無論、このことはまだ粗雑な想定に過ぎず、私自身も中世の議論に精度の側面で遠く及ばないので、もっときちんと分析してみなくてはならない。言い換えれば、超越性の諸側面ではなく、超越性それ自体について、あるいは超越性としての超越性を考察していきたい。

(1,045字、[2024年10月30日])

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