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日本スゴイ One Japan One Family

私は発達障害の診断を受けて、大人になってから、周囲との摩擦の要因が一部生まれつきであることを自覚し、また客観的にも認定(診断)してもらった。それはもう十年以上前のことだが、摩擦が無くなったわけでもないし、自分のニガテが無くなってくれるわけでもない。あらゆる手を使って周囲に適応し、生き延びるという課題と取り組み、悪あがきを続けてきた。こういえば綺麗だが、言い換えれば、人に心無い言葉を吐き、怒らせ、傷つけ続けて来たとも言える。

こうして達者に文章を書いたり口頭で話したりできるのは、私が日本国民で、日本語ネイティブだからである。日本人の特徴を日本語を話すということにからすれば、私は十分日本人だろう。

だが、ペラペラと日本語を一方的に並べるだけでは、〝日本人〟というには何か欠けているところがある。というのも、私自身の実感としてある。なぜならば、周囲の日本人たちと人並みにうまくやれていないからである。

なぜうまくやれないのか? 細々としたことはその都度教われることもあるのだが、もっと抽象的なところで言葉が足りず、言葉がほしいと思うことがある。

そうした私個人の悩みとはまったく別に、日本人であるとか大和民族を輪郭づけようとしているのが右派の人たちである。「大和心(大和魂)」であるとか「日本精神」であるとか、ぼんやりしたカルト的で内輪受けしかしないようなコトバではあるが、それでも日本人の日常に適応するためのヒントがそこに紐付いている。

日本は天皇陛下を中心としたアットホームな雰囲気の国であるとか、別に天皇陛下は人間に成ったわけでもなければ最初から神だったわけでもないが、日本最高の宗教指導者であるとか、天皇陛下に近い(物理的に)方が日本で生きて行くには有利とか、もったいぶらずに最初からネタバレで教えておいてくれれば、賛成反対はともかく私ももっと楽に順応できたと思う。

ところで、別の意味で生きるのに参考になったのは、マフィアやヤクザを描いたドラマである。彼らは反社会的であるが、タテマエとして一種の美徳を持っており、それはリーダーが構成員と疑似家族的な関係を取り結ぶところに基礎がある。構成員にあまり教育がなくても、親子や兄弟という人間関係は原始的で、既に強固なステレオタイプがあるから適応しやすい。

そして、こうした親分子分の情緒的な関係というのは学校や職場でも反復されているように私にはみえる。日本人は右翼だとか反社だと思われたくないためか誰も口に出してはあんまり言ってくれないが、実際は親分子分関係が心理的に安心するのであり、子供や弟妹のように安心して微笑ましくみていられることに安心を感じる、と前提したほうがどうやら生きやすいのだ。

(1,101字、2023.10.02)

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