質料とはなんぞや
何かを分析するときに、その分析対象の構造と機能との対立を調べて説明することがある。構造とは特徴(述語)の集まりであり、特徴を一定の順序やかたちに並べたものである。だから、構造は単に特徴と呼ばれることもあるし、形式と呼ばれることもある。一方、機能とは、その構造が他の構造にどのような作用・影響を及ぼしたり、どのような変化を成し得るかということ、すなわち働きである。
例えば、仏教には「体」と「用」との対立があり、体とはカタチのこと、用とはカタチの動き方を意味するという。例えば、コンピュータサイエンスでいうオブジェクト指向では、複数の変数(データ構造)と複数の関数(機能)を組み合わせたモノをクラスまたはオブジェクトと言って、ここでも構造と機能とは区別される。
一方、構造でも機能でも無いものとして、質料(しつりょう)というモノもある。これは哲学用語でもあるので聞き慣れないが、一応対義語としては形相(けいそう)というものがあり、これは質料が取り得るカタチを意味している。例えば、生えている樹木は、伐採された角材に対して質料を提供するものである一方、既に角張った形相を持つ角材もそこから製作される椅子のような製品に対しては質料を与える側となる。この形相は明らかに形式や特徴づけのことを指しているから、形相と構造を同一視してもいいだろう(ただしいわゆる構造主義では構造とは構造もしくは特徴を生成する源泉であると特徴づけられるケースもある)。
構造や機能は当然観測可能であり、観測された限りでコトバによって捉えられる。例えば何かが赤くみえれば、「~は赤い」という述語になるし、その香りが人をいい気分にさせれば「~は(誰か)の気分をよくする」という目的語への作用を意味する動詞になる。
このように構造・特徴や機能・作用はコトバで捉えられるのだが、それらに対して素材の立場に当たる質料はどうだろうか? 例えば「角材は四角い」と言えば、述語は特徴づけをおこなっており、主語の指示対象はそのような特徴を持つ質料を伴った存在だということになる。しかし、角材から四角さや真っ直ぐさのような形相をはぎ取り、木であることや固いこと、水分を含むことなども形相であるからとどんどんその述語を解除していったら何が残るだろうか? 何も残らないように思える。なぜならば、そこに残るのは形相を持たない質料だが、それはいかなる述語もつかないからである。それをコトバで述べれば「存在する」だが、そもそもコトバは存在するかどうかを表現する力がない。もしそれがあるなら、億万長者としての筆者が存在すると言えば、それが存在するはずだが、質料を持った筆者はそのようなコトバから独立して存在する。
したがって、構造や機能の外部に「質料」というものがあらゆる構造や機能に先行して存在するはずだが、それは決してコトバで尽くすことができないものでもあることになるだろう。
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