倫理学と反出生主義について私が知っていること
昨晩(3月7日深夜)は反出生主義の話をしている人がいたので、主にベネター David Benatar の反出生主義について簡単に知っていることを話した。
ベネターの反出生主義は功利主義の一種
反出生主義は功利主義の一種である。なぜならば、結果(帰結) consequence として取得できる快楽と苦痛の利得を計算するのが功利主義の特徴であり、それは反出生主義も共有しているからである。例えば、ベネターは生まれた場合の快楽と苦痛と、生まれなかった場合に生まれなかったことによって生じなかった快楽と苦痛について場合分けして考察している。生まれなかったことによって快楽が生まれなかったことは特別プラスではないが悪いことでもないが、苦痛が予防できたことは明らかにプラスである。一方、生まれてしまった場合、多少の快楽を得る機会があるかもしれないが、苦痛の方が圧倒的に大きい。中でも大きいのは生まれたからには死ななければならないというマイナスである。これを超えて快楽を得る人間はいるとしてもごく少数に留まるわけで、生まれてくる方が快楽と苦痛の振れ幅(リスク)も高いし不幸になる可能性も十分にあると言える。したがって、両者を比較すると、生まれないことによって確実に苦痛を予防する方が良いという結論が得られるであろう。
私がこのようなことを言うと、「ベネターは功利主義ではない」という意見を頂くこともある。その人たちの読みではベネターは功利主義ではなく、危害原理 harm principle に則(のっと)って議論を進めているというのだ。危害原理に基づけば、子供をつくるべきではない。なぜならば、子供というのは自分自身ではない快楽や苦痛を独自に感じる別の主体であるからだ。このような別の主体を生産することによって個人(親あるいは親になりたい人物)は、その別の主体に生きる上で回避できないリスクを負わせることになるが、それは正当化できない。なぜならば、危害原理によってそれは禁じられているからである。哲学者ミルが提案した危害原理とは、個人には自分の幸福を追求する権利があり、自分自身の幸福を追求するやり方をもっともよく知っているのは本人なのだから、本人にどのようなやり方で幸福追求するかを選択する権利を与えるべきだという前提においた上で、そうはいっても他人(他の快楽や苦痛を感じる主体)の幸福追求を阻害するようなかたちで危害を加えることはこのような幸福追求権によっても正当化されないという制約を加えるものである。したがって子供をつくることはそれが親になりたい者の幸福追求にどれだけ資するものであっても、この制約に触れるため、道徳的に正当化できないという結論に至るのである。
功利主義は帰結主義の一種
なお功利主義とは帰結主義 consequentialism の一種である。なぜならば、功利主義は行為の結果に応じて道徳的評価を下すからである。行為の結果に応じて道徳的評価を下す道徳的な考え方には、例えば他に利己主義などがあるが、功利主義は著名な「最大多数の最大幸福」に比較的近づくことを善であると位置付けており、各人の苦痛と快楽を平等に評価するという平等主義も頻繁に見られる特徴である。
帰結主義は行為によって道徳的評価をする倫理学の一種
なお帰結主義 consequentialism は行為によって道徳的評価をおこなう倫理学の一種である。なぜならば、何らかの意図的な行為や選択の結果が帰結として生じる快楽や苦痛の増減にどのような影響を与えるのかを考慮するのが帰結主義だからである。一方、同様に行為の善悪を問題にする考え方であっても、行為の結果は偶然に左右されるものだから、道徳的評価は動機によって評価すべきであって、たとえ帰結が良いものであっても「偽善」であることは有り得るし、帰結が悪くても良き意図を持ってなされたものであれば誰もそれを責めることはできないという考え方も存在する。とはいえ、動機づけを重視する「義務論」と呼ばれる立場も、帰結主義もいずれも行為の倫理学の一種である点では共通である。したがって、帰結主義は行為の評価に関わる道徳思想である。
行為の倫理学の外
西洋倫理学では伝統的に行為の倫理学が中心になってきた。それは或る行為をおこなうべきかおこなわざるべきか、あるいは左を選択するか右を選択するかといった行為に関する考慮の際にどちらを善に近いものとして解釈するかを重視したからである。しかし、一方では、行為を評価の単位とするのはおかしいのではないか、限界があるのではないかという異論も存在する。例えば、道徳的に良い行為というのは単体で評価されるのではなく、「誰がするのか」も考慮に入れるべきだという考え方もあるし、どのような共同体に所属している個人がおこなうのかも考慮に入れるべきだという考え方もある。そういう発想で行けば良い行為とは善良な人間がおこなう行為であり、悪い行為とは悪い人間がおこなう行為である。あるいは、良い人間とは良い共同体に受け入れられている存在であるということにもなる。一方、道徳的に良い行為というものがあるとしても、それは決して一般化できるものではなく個別に評価される他ないものであるという道徳的個別主義も存在する。道徳は数学のような冷酷な法則や規則で一般化したり測定できるものではないというのである。
見え隠れする極端さ
上記で取り上げたいずれの立場も、どこかに我々の道徳的な見方、善悪の判断の仕方からズレる部分がある。我々は功利主義的にいつも計算しているわけでもないし、功利主義にもとづいてできた規則にしたがっている気もしない。そうかといって純粋な道徳的な動機づけが自分の中に備わっていると確信できる瞬間も多くはないし、良いと言われている人間や共同体が悲惨な事件を起こして驚いた経験もあるだろう。危害原理も一見もっともらしいのだが、一定の適用範囲を超えると我々の直観から逸脱してグロテスクだったり、息苦しい結論になってしまう。何かが間違っているのだ。
おそらく倫理学者はもっと精密な理論を組み立てようとしているし、実際それらの繊細な理論が存在するのだろうが、なかなか実践的なものとして我々の手元には降りて来ていないようだ。たいていの日本人は「道徳」なんて仰々しい言葉は使わないし、私もほとんど聞いたことがない。そういうものにはあまり関わらない方がむしろ幸福のためにはいいのかもしれない。
(2,648字、2024.03.08)