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毎回気の利いた話をする人 good speeches everyday

例えば、出会うと、毎回おもしろい話をしてくれる人がいる。また、本や映画の感想を教えてくれるにしても感想そのものがおもしろい人がいる。類似の体験だったり、何回もきいたことのあるエピソードであっても、いわゆる切り口や視点をうまく切り替えたり、思わぬ別のよく知られた事柄とのアナロジーをみつけて驚かせてくれる人もいる。

そういう発信能力、解釈能力、分析能力、感受性を私も身につけたいと思う。とはいえ、この能力というのは筋力のような物体を取り扱う能力とは異なる。なぜならば、聞き手をよくみる能力も含まれているからだ。

例えば同じ事柄について深く長い話を相手に聞かせようとしても、最初に「この話はあなたにとって聴くに値しますよ!」とアピールできなければならない。というのも、そうでなければ、気の利いた話として完成する前に聴かされる側の気持ちも聴かせる側の気持ちもしぼんでしまうだろうから。気の利いた話は最初から最後まで気の利いた話であるか、少なくとも聞いた後にそうだったように錯覚させるような話でなければなるまい。それだけの仕掛けを詰め込んでなお、簡潔平明にして達意流麗な語り口であればもっとよい。

気の利いた話が完成するかどうかは聴き手にも依存するという点を拡張すれば、我々は事柄の解釈(自分自身のモノの見方考え方)だけではなく、聴き手のアタマのなか(相手自身のモノの見方考え方)にも注意を払う必要があることになる。なぜならば、相手にとって何が気になるか、特に潜在的に気になっているが未知のことが何なのか? をあらかじめ推測できれば、相手をこちらの話に引きつける大きなフックを手に入れたことになるからである。

平凡な体験をして凡庸に解釈してやり過ごしたり、あるいは今日の平凡さも昨日や明日と同じだと切り捨てることもよくあることだ。なぜならば、あまりに刺激的過ぎると疲れてしまうからである。

それでも、毎日世界のどこかで生死を問われる事件は起こっているし、私自身の周囲に限っても、みればみるほど凡庸な人はひとりもいない。私は何も知らない。身近な人についても街の建物や歴史についても肉体の仕組みについても何も知らない。なぜならば、それでも平気だし、おそらく知ろうとしても途中で退屈してしまうからだ。

ただ、私が退屈するからといって他の人もそうではないという点に少し気を留めておきたい。自分自身の感受性を交換することは現在のテクノロジーでは困難だが、他人が何かに興味を持つメカニズムには敏感になっておきたい。なぜならば、それが私に理解しにくい事柄を気の利いた話に転換させるカギになるのではないかと思っているからだ。

(1,094字、2023.11.11)


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