指先《短編小説》
カランコロン…
カランコロン…
祭りの中、一際響く下駄の音。
振り向くと、烏の濡れ羽色の髪を背中に揺らし、金魚掬いを覗いている女。
顔は影になり、よく見えないが微かに覗いた鼻筋は、すっと通っていて、一瞬見惚れた。
女は一人の様だった。
また気儘に夜店を覗きながら、下駄を軽快に鳴らす。
俺は何故かその後ろ姿を追って、顔を確かめなくてはいけない、そんな焦燥感に襲われた。
妻が「貴方、どうなさったの?」と聞いてきたが、「悪いが用を思い出した。先に帰っててくれ」
そう言い残し、幼い娘と妻をその場に残し、女の後ろ姿が見えなくなる前に慌てて追った。
相変わらず、下駄の響く音が妙に耳につく。
あいつと出逢った日を思い出していた。
偶々入った飲み屋で女中として働いていたのだ。
俺は仕事が上手くいかず、その日はむしゃくしゃしていた。
滅多と酔い潰れない俺が、その日は店仕舞いをする時まで目を覚まさなかった。
女中に声を掛けられ、自分が大分泥酔している事に気付いた。
女中は、此処に住み込みで働いていると言い、足元も覚束無い俺を自分の部屋へと休ませてくれた。
次の朝、俺は女中に礼を言い改めて、お返しがしたいと伝えると、女中は顔を赤くして俯いた。
そのうぶな表情に揺らいだ。
そこから俺は、家庭と女中の宮という女の家を行ったり来たりする日が続いた。
宮には、俺が妻子持ちだと伝えていた。
それでも構わないと、宮は従順な女だった。
それから半年が過ぎた辺りに、思いもよらない事を告げられた。
妊娠した、と。
俺は諦めてくれと頼んだ。だが宮は一人で育てると、だから別れて下さいと言って来たが、正直俺は宮が惜しかった。
手放したくなかった。
だが、このままでは身の破滅だ。
宮に、妻と離縁すると伝えた。
そして新しい生活を築こうと。
宮は涙を流して喜んだ。お腹はもう隠しきれない位になっていた。
宮が観たいと言っていた、少し遠くの海までその日は汽車で出掛けた。
入念な準備をして…。
海岸に着き、喉が渇いたと言う宮に飲み物を渡した。
どの位の時間が経過したのか、覚えていない。
気づいたら宮は口から泡を出したまま、動かなくなっていた。
夜汽車で帰路に着いた。
あの時の宮の顔は未だに夢に出てくる。
そんな事を思いながら、女の後ろ姿を追っていたら、嫌な汗が背中を伝っている事に気付く。
まさか…な。
潮の香りが鼻につく。いつの間に?
此処は…あの場所じゃないか!
俺は慌てて逃げようとしたが、その目の前にはあの後ろ姿が。
『私は邪魔だったのね…』
宮だった。指先が伸びてきて、軽く俺を押した。
それだけの事だったはずだ。
数週間後、崖下に損傷が激しい身元不明の遺体が見つかった。
近くには、女物の下駄が片方落ちていた。
[完]
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