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わたしの本棚 |#1 対立を生きていく、平等性と個性を追う苦しさ

ー”生きがい”ではなく、”死にがい”。ー

タイトルに強く惹かれ手に取り、気がつくとあっという間に読み終えていました。

[死にがいを求めて生きているの] 朝井リョウ【著】(2019年発売)

中央公論新社より

一年ほど前、多様性をテーマに描き、その物語の持つ力に圧倒された朝井リョウさんの作品、「正欲(2021年)」の前身となるような言葉が散りばめられた本作品は、8人の作家がリレーした「螺旋プロジェクト」において平成の時代を描いた小説です。

朝井さんが考える平成の時代において、物語のキーワードとなる「対立」をどのように描くのか、とても気になっていた作品でした。
私は正欲の方を先に読んでいましたが、毎度朝井さんの長編作品を読むと、自分の背筋が伸ばされるように感じ、大量の考えを言語化出来ないもどかしさ、だけど深い共感に浸れる何とも言えない状態になります。

語りたいテーマは山ほどありますが、その中でも、特に印象的だった場面について、今回は以下をピックアップしたいと思います。

ストーリーのネタバレは含みませんが、平成の時代から令和へ移行した現代にも大きく通づる内容だと感じ、今を生きる多くの人にも当てはまる物語だと思いました。


1.競争の廃止と平等性の持つ苦しさ

ゆとり教育が行われた時代、ナンバーワンではなくオンリーワンを目指そうという考え方が広まりました。その背景には、「個性を大切にしよう」「人と比較しない」といった方針があり、競争するのではなく人間性を豊かにする”ゆとり”を取り入れる方向性に進んでいきました。
体育祭の競技が廃止となったり、テスト順位表を公表しなくなったりと、目に見える形での順位付けが日常から消えていく。
その代わりに生まれた平等性の風潮は、まさに「平が成る」平成を体現しているかのように思われます。

小説でも学校で具体的な競争を廃止するシーンが出てきます。
それまではペーパーテストや体力で競っていた数値が、突如として見れなくなる生活。他人と相対的に競うことで切磋琢磨したり、ときに負けて悔しい思いをしたりしていた昨日までと打って変わり、自分の中にある絶対値が指針となる瞬間。

そのとき人は、表層的に他人と比べなくなってよくなった日常に喜んでいたのでしょうか。
それとも、「比較しなくていい」と言われれば言われるほど、実体のない自分の輪郭が不安定になり、自身の中で自分と相手を比較する苦しみにむしばわれていくのでしょうか。
きっとその痛みは、他人からレッテルを貼られるよりも、自分で自分に宣告をする方がもっと苦しいのではないかと読んでいて感じました。

もちろん、競争の中にある他者比較も苦しい。その人の内側がどんな人間性であろうとも、数値や結果だけで決められるのは時として残酷で、不平等である場合もあります。反面、数字だけが持つ平等性が存在することは、今の社会のルールでも残存しているように、1つの事実でもあります。

しかし、普遍的な苦しみだとしても、「個性を大切にしよう」という流れに乗り自分で自分の立ち位置を確かめていく過程で、終わりの見えないような比較のループへ入っていき、無意識の内に自分を傷つけてしまう方がもっとつらいのではないかと思います。

競争と平等、相反する言葉のように見えて、実はどちらも救われる部分とそうでない部分が共存していることに、深く考えさせられました。

2.カテゴライズされた中の濃淡

物語の中で、私が最も好きなキャラクターである南水智也が食堂で「対立」について意見を述べる場面がとても好きです。
朝井さんが書く色んな世代、性別の人物でも、私は大学生の登場人物たちがすごく好きなんですが、特に本作では南水くんが客観的かつ冷静な視点の役割を持ってて、すごく良かった、、。

多様性が脚光を浴びて、各個人のもつ色んな事情を名前のあるカテゴリーに分類することが多くなった今、ついその集団の中にあるグラデーションを忘れてしまうことがある。それはまるで、一度同じボックスに入ってしまえば、全てが同じ人なんていないはずなのに、同様に扱われているように感じます。
私自身の経験でも、肩書や背景だけで決められたり、印象付けられたりして窮屈な気持ちになったことがありますが、そういうことが以前よりも社会全体として多くなったのではないかと感じます。
しかし、その同集団の中には、同じ名前を持っていたとしても、分類の際に引いた基準の線から数メートル離れている人、たった数センチだった人、様々な人がいたはず。
だけど外側からは、同じとして見られ、扱われてしまう。自分自身もそう捉えてしまう瞬間が絶対にあるはずだから、その中にある濃淡を忘れないようにしないといけない。

自分のもつ言語化できず悩んでいた特性に対して、ぴったりの名前と出会えたとき、私は嬉しくなったことがあります。
まるで、何も着てなかった状態に新しい服が与えられたようなイメージです。言語にはそんな風に喜びを与えてくれる機能と、否応にもカテゴライズしてしまう機能が備わっているのだと読んでいて感じました。

こうしたメッセージは「正欲」とも繋がりますが、マイノリティと考えているのはあくまでも自分の想像の範疇であるということ、それを超えた部分を絶えず忘れず意識し続けることは、自分と違う部分を持つ人々と生きていく社会で努力していかないといけないと改めて思います。

だけど、きっと私は日常でそれらを忘れてしまったコミュニケーションを時にとってしまうだろうから、何度でも本や色んな面から学び直しをしていかないといけないとも思います。

3.終りのない対立と分断

色々な形で対立構造が描かれていますが、作品を読み終えてから「実際の社会では何に当てはまるかなー。」と考えていました。
暴力や戦争で争う現状、国境付近に建設される壁、強硬な政策を進める政府と国民の分断。こうした世界で起こる目に見える分断は、どんな時代も形を変えながら存在してきたのではないでしょうか。
例え、目の前の敵と戦ったとしても、その背景にある巨大な問題は変わることなく、時代を超えて継がれ続けてしまっている。ということは、根本が変化しなければ、対立はどこまでも私たちと共にあり、向き合わなければいけない問題となるのではないかと考えました。

そんな大きな問題に過ぎず、これまでの人生で小さな対立や意見の違いを沢山見たり経験したりしてきました。
各個人でも決して全てが同じ属性、特徴、考えを持った人はいない。背景が異なるからと、初めから対立を避けた関係の構築ではなく、どのようにしたら共に生きていけるのかを考え続けること。そうした言葉は重く私の中に入っていった気がします。

物語の最終局面では、登場人物である大学生たちの対立構造から、浮かびあがる平成の時代背景、今にも繋がる社会の風潮や考えなければならない課題に結びついていくので、ページをめくる手が止まりませんでした。

終始、みぞおちら辺がうっとなる内容でありながらも、点と点が繋がるような小説の構成を上手く両立させているからこそ主張が伝わりやすく、読者を掴んで離さない作家さんの技術は本当にすごいです。

4.生きがいを求める後ろに

最後に、タイトルでもあるように、死にがいを求める生き方とは何なのか。

よくドキュメンタリーのインタビューなどで「これが私の生きがいです。」という言葉を目にしたり、最近では「推し活」が流行り、「○○が生きがい!」ということを耳にします。

物語の転換を迎える章で、「生きがいがある人間はそれだけで人生に価値があると思えるからいいよな。」という考えと、「生きているだけで存在意義がある。」という意見が議論されていきます。生きがいを見出した人物と、生きがいを追いかけているようで実は生きがいを捏造して生きている人物。

同じようなものを追いかけているようで、実は違うのではという視点が読んでいて考えさせられました。

「自分の人生には価値があるのだ」と、生きがいに見え追いかけるそれは、人生を終える際に自分で肯定できる人生にするための”死にがい”である可能性。目的と手段が入れ替わる様子は、物語として触れると客観的に見れるけれど、現実だったら相当見えにくいだろうな、と思います。

そして、「生産性」という言葉が個人にも使われるようになってしまった背景には、個性を大切にしようとした社会背景が、ちゃっかりと後ろに鎮座しているのではないのかとも思いました。競争の機会が無くなっていき、自分の中で他人と比べることで自分を苦しめてしまう現代ならではの痛み方。

この現代が抱える問題は、本当に個人だけの問題なんでしょうか。時代を追うにつれて、実は社会と個人の意思決定の境界線がどんどん曖昧になっていっているような気がしています。

おわりに

朝井さんの作品を読了後の数週間、私はいつも内容についての思考でいっぱいになります。その中で今すぐ言語化できない部分はありながらも、いくつかあるエッセンスを私は忘れないようにしたい。

そして、また背筋を少しピンと伸ばして、大学や生活の中で今目の前にいてくれる人たちとのコミュニケーションを大切にしよう、と思います。


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