スクールカーストとルッキズムについて

先日、数年通っていた病院から転院し、初診を受けることになった。
その際にこれまでの生活歴をざっと聞かれたのだが、中学時代はどうでしたか?と聞かれたときに即答できなかった。

「まぁ…なんというかスクールカースト低めな感じというか…」

相手はおじいちゃん先生である。スクールカーストという言葉がほとんどひっかからなかったように見えて、私は慌てた。

「いじめられていたんですか?」
「いやっ、いじめられてたというわけでは……うーん……でも、そう、確かに軽いいじめはうけていたかもしれません」

「軽いいじめ、そうでしたか。具体的にはどんな扱いを受けましたか?」

具体的には?どんな扱いを受けていたか?これまた即答できなかった。

「えーとぉ……ばい菌みたいな扱いを受けたりとか、そんな感じですかね…」
「なるほど、嫌がらせ的なことですね、分かりました」

先生は恐らく本当にそうメモしただろう。

よくよく考えると、スクールカーストが低いという状況は一体どういう状況なのだろう。
当事者からすれば、そういうだけでもう「あぁぁぁお疲れさまでした!」と言い合えるのに、当事者でないと一気に分かり合えなくなる。

そこには確実に、ルッキズムの影響が存在した。

私の顔はのっぺりとしていてあごが出ており、鼻も低く目も小さい。しかもほぼ一重。
そして毛深い。どこをどうとっても毛深かった。
学校の帰り道にすれ違いざま「ダサwwwwww」と他校女子に笑われてものすごく恥ずかしかったのをよく覚えている。

自分でも自分を可愛いとかきれいと思ったことは幼少時からなかったし、両親が可愛いと言ってくれても親ばかだからだとしか思わなかった。
せめてもう少しだけ整った顔であれば、と思ったこともあるが、整形はおそろしいのでやらない。

『あなたの人生の物語』というこの間読んだSF短編集には、顔の美醜を見分けられなくする装置が開発され、それを巡る思春期の男女の物語が展開する。
あとがきの中で、あなたならこれを付けたいと思うか?という筆者からの問いかけがあったが、私ならつけたいと思うことだろう。
もしこれが中高時代にあったとしたら、どれだけ楽に生きられたことか。

それでも、美醜が見分けられなくなるということは、美しい顔も判別することができなくなるということである。
当然「推し」文化はなくなるだろうし、化粧や装いに関する業界も廃れていくことだろう。
ルッキズムがなくても変身願望は生まれるものだろうか? エンターテイメントはどこから生まれてくるのだろう?

ルッキズムがなければ、スクールカーストも存在しなかっただろうか?
少なくとも、ルッキズムに基づくカーストは作られなかっただろう。

今私が自分の推しのビジュがよいということは、昔の私が置かれていたカースト制度、そして私が受けていた行為を肯定することになるのだろうか?

(緑青)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?