子はかすがいとか言うな

今日言いたいのはこのタイトル、これに尽きる。

「ほんと、子はかすがいよね。〇〇ちゃんがいなかったらこんなに楽しく過ごせないもの」
何気なく、だけれどしばるように響く言葉。

なんだそれ。
自分で相手に向き合う努力を放棄して、その仲介を子どもにさせて、それでいい気になって、いいご身分ですね。

しかもこの言葉は子どもを自分の理解者・味方と位置付ける強い引力をもつ。
やめてくれ。
私はあなたの理解者でも味方でもないし、なりたくもない。
私はあなたの親ではない。
私はあなたの子どもだ。勝手に大人にして甘えないでくれ。

ある時は大人扱い、ある時は子ども扱い。
これっておままごとなんですか?
自分と同じものを選んだり似ているときは「ママの子だもんね」といい、父と気が合う場面を前にすると「パパの子ね」という。
おままごとなんですか?
そうやって楽しんでるってことでいいですか?

赤ちゃん扱いして何もかもやってあげようとしたり、そうやって恩を着せることで人から「怒る権利」を取り上げたり、友達のように近況を愚痴ってきたり。

私のことを何だと思っているんだろう。
本当におままごとの相手としかみなしていないのかもしれない。

そうやって虚しさを感じる一方で、私が両親にもたらしている影響も確かに感じる。
私がいなければ、父が冗談を言えるような和やかな雰囲気にはならないかもしれない。

私がいることで母が張り切っているのも感じる。
この大きな赤ん坊の世話をやらねば、やりたい、というやる気である。
正直毎日夕飯を作ってもらっている身として、私だったらこんなにちゃんとできないと思ってしまうし、それをやりきる母はすごいと思う。
そういう完ぺき主義を私が発動してしまっている感はある。
また、そういうやる気がなければ無気力になってしまいそうな危うさを持つ人だからこそ、駆り立てる何かがある今の状態はもしかしたら母にとって悪くないのかも、とすら思ってしまう。

それとも、これは私が自分自身の影響を過大評価してしまっているだろうか?

今の状態が私や両親にとっていいのか悪いのか、一概に言うことは難しい。
また、結婚相手に誠実に向き合うということ、子どもを子どもとして育児することがどれだけ難しいことか、何となくはわかっているつもりだ。
正直私にはどれもできる気がしないし、それをやってのけている友人たちを見ると、自分がブラックホールに吸い込まれていくような気分になる。

それでも、「子はかすがい」といって夫婦の仲を取り持たせることは、大人としての責任を放棄した言葉だと、私ははっきり言いたい。
その呪いの言葉から逃れる日を私は夢見ている。

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