日常恐怖症の因数分解

日常が連綿と続いていくことが怖いという話。
私も同じものを共有しているような気がする。
同じものが変わらずに毎日押し寄せてくることに対する怖さ、しんどさ。
それは、一体何なんだろう?

何もない自分の空虚な日常が繰り返されることに対する怖さ?
空虚だと何が怖いんだろう?
自分には何もない、楽しいと思えること、誇れることが何もない人生であると認めることになるから?

私の場合、実家での生活のリズムはすべて母に支配されている。
母が心地よいと思うやり方、順番、BGMですべては流れていく。
そして母は変化を好まない。
自分が気に入ったもの以外は認めず、試してみるということすら行わない。
そういった、他者のリズムで生活することに対する息苦しさが、しんどさにつながっているという点もあるのかもしれない。

私自身はわりと気まぐれで、気分屋なのではないかと自分で思っている。
だからふと思い立って買い物に出かけたりしたいし、自分へのご褒美にスタバに寄ってそこで夕飯を済ませてみたり、気になっているご飯屋さんに出掛けるということもしてみたい。

でも、そういったことはできない。
母にとっては自分の料理を手伝ってもらって、美味しく食べてもらうということが当たり前のことであり、うれしいことであり、親孝行でもある。
それを行わないということにたいして、恐らく表面上は特に問題ないというふりをするだろうが、心のうちでは歓迎しないだろう。
それが何となくわかるから、外出はためらってしまう。

今自分で言っていることがとても恵まれた環境に文句を言っている、ということなのは重々承知している。
面倒を見てもらえるだけありがたいのだ。
ただ、そのありがたさというのが、時々真綿のように私の首を絞めることがあるのだろう。
それがしんどさの原因の一つなのかもしれない。

「自分へのご褒美にスタバへ寄って」と書いたところを思い返しているときにふと思った。
私が望んでいるのは、日常におけるちょっとした変化、報酬なのではないだろうか。

それは職場の人にランチに誘われて行ったことのないお店に行ってみることだったり、思いもかけない人から連絡をもらうことだったり、本屋で好きなマンガの新刊を見つけることだったり、何気ないSNSの一言にいいねをもらうことだったりする。
そういったことが何も起きない空虚な日常の連続が、怖いのではないだろうか。

私は私で今、精一杯がんばっている。
様々な瞬間で、がんばっていると思われないような場面でも、私としては精一杯がんばっているのだ。
それに対する報酬が空虚な日常の連続では、とても耐えきれない、しんどい、と感じるのかもしれない。

私なりに日常へのしんどさ、怖さを分解してみたがどうだろうか。
まだまだ掘り進められそうなテーマだが、頭がぼんやりしていてうまく考えられないので、今日はこれで筆をおくこととしたい。

(緑青)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?