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ジェンダーの垣根を越えて

最近考えていることなんだけど、私はどうやら、男女という性別の枠を越えたジェンダー表現をしている人に、より強い憧れ・魅力を感じているようだ。

卑近な例を挙げれば、私の永遠の推しはf(x)というK-popグループのAmberだし(このグループはすでに解散しているが)、BeatboxerのSHOW-GOの中性的なファッションスタイルはとても好きだ。
より分かりやすい例ということであれば、ドラァグクイーンなどがその筆頭に挙がるだろうか。
ティルダ・スウィントンやカーラ・デルヴィーニュはいつでも私の憧れだし、女王蜂のアヴちゃんはとても可愛らしいのにかっこいい。

で、こういう話をすると大抵「じゃあそういう人が好きなの?」という質問が出てくるのではないかと思うが、そういった人たちに恋愛感情を感じるかといわれると、今のところはノーである。(先のことはわからない)
恐らく自分にとってはそういう対象ではないんだと思う。性別の垣根を自由に越えて自分らしくあろうとするその表現を、とてもかっこいいと感じる、本当に憧れなんだと思う。自分がそうでありたいという気持ちがきっとあるんだろう。

ここまでそれを表す単語を使わずに書いてきたが、当事者の方や詳しい方であればもうお分かりだろう。要するに、私はクィアな人にとても憧れており、そうありたいと願っているのである。

自分がそうであると気が付いたのはごく最近のことだ。
エリス・ヤング著の『ノンバイナリーがわかる本』という本を、LGBTQのアライ(理解者)のつもりで読んでおきたいと思い手に取ったのだが、読んでいくうちにこれは私のことではないか、今まで私が感じてきたことが重なってくるという読書体験だった。
参照:https://www.akashi.co.jp/author/a256073.html

そして、私もこのノンバイナリーという言葉に救われた一人である。
私は今までもLGBTQの活動に注目してきたし、アライとしてその当事者の支援になるような行動をしていきたいと考えていた。
ただ、その原動力が何なのか自分ではよく分かっておらず、これはただの野次馬根性なのではないか、単に興味本位で気になるから動向を追っているだけではないか、と感じるときもあり、時折罪悪感を感じていた。
そうではない、私は当事者だったのだ、だからその活動が気になるのは当然であり、むしろ堂々と発信してよいのだ、という気付きを得られたのは、今までの人生の中でわりと大きな出来事だと思う。

この本を読んで今認識している自分のジェンダーは、クエスチョニング(自分がどんなジェンダーなのかわからない)、またはジェンダーフルイド(環境や場面によって自分のジェンダー表現が変わる)である。自分の現在の生物学的性別にそこまで違和感はないし、その性別に沿ったファッション表現をすることも時々ある。ただ、過去には異性側の洋服を積極的に買って着ていたこともあるし、今はより中性的なジェンダー表現に憧れており、それを試行しているところである。
髪型もとにかくカッコよさを求めてショートカットばかりだったが、長髪で中性的なメンズモデルの雰囲気を真似てみるのも悪くないかもしれない、と感じている今日この頃。

ただ、最初に書いた私の魅力の感じ方は、相手のジェンダーを認識して初めて現れてくるものなのではないか、とも考えており、それの善悪については考え中である。
つまり、生物学的に男性である人が男性的なジェンダー表現をしてるのと、生物学的に女性である人が同じジェンダー表現をしている場合、私の魅力の感じ方は全く異なってくるのである。
自分はノンバイナリーであると自認しておきながら、他人にはバイナリーな区別を行って勝手に魅力を感じているというのは、とても歪んでいるのではないかという気もする。皆さんはどう感じるだろうか。
(というか私の言っていることが分かるだろうか?私は理解不能なめちゃくちゃなことを言っていないだろうか?)

もしかしたら、これは私の区別の仕方というよりも、生物学的に全く違和感を持っておらず、出生時に割り当てられた性別の通りに生きることが当然である、と認識している人の言動と、そうでない人の言動の違い、ということでもあるかもしれない。
このあたりはより深く丁寧な思考が今後も求められるところである。

先日自分のジェンダーの気づきについて、男性の友人に気軽に話してみたところ、実は自分も学生時代に同性に性的魅力を感じることがあった、という告白をしてくれたことがあった。彼はその学生時代に異性と付き合っていたことを当時から知っており、だからそれは私にとって少なからず驚きを伴うものだった。
私はジェンダーとセクシュアリティは別で考えており、クィアであるから同性愛者、というわけではないのだが、ジェンダーやセクシュアリティというものが、確固として動かないもののように見せている個々人の中でも実は揺らぎのあるものなのだ、という事実がまた一つ得られたのは貴重な体験だった。

あなたの隣にいる人は、本当に今表現してるジェンダーだけを有している人だろうか?
一度立ち止まって考えてみることも大事ではないだろうか。

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