私はいつ終われるんだろう?
私が繰り返し思い出す好きなマンガの一つに、ヤマシタトモコの『HER』という短編集がある。
その中でさらに思い入れのある話がある。
主人公は女子高生で、とにかく「フツー」であろうとするも、その状態に違和感を覚えている。
「処女だとやばくて 20歳をすぎると終わってて レズはヘンタイで シュシュは絶対必要で おそろい拒否とか世界滅亡」
それでどこかの大学の経済学部とかに入ってどこかの会社に就職して25歳くらいで結婚して2人くらい子どもを産む。
それが自分のレール、「フツー」に終わることだろうとなんとなく思ってはいる。
でも、
「終わりって
何が終わりでいつ終わるんだろう
あたしはいつ終われるんだろう」
私は、いつ終われるんだろう。
何度も何度も繰り返し問うてきた。
これは、「フツー」にしかなれない自分の自己形成の旅は、いつ終われるんだろう?という苦悩の問いだったのだ、ということに今日、ようやく気が付いた。
周りは次々に「フツー」の通過儀礼を終えていく。
恋愛、結婚、出産、育児、エトセトラ、エトセトラ...…
そもそも恋愛とはなんだろう?
私は今、恋愛をしたいという気はほとんどない。
実生活でときめきというものを覚えることも全くないし、それが必要だとも思えない。
ただ必要だと思うのは周波数の合う運命共同体。
人生を共に運営していく共同経営者。
人生を同道できるパートナー。エトセトラ、エトセトラ。
だってそんな人がいなければ、他に私をこの世に引き留めてくれる存在は何もありはしない。
友達や尊敬する人々、大切にしたい存在はいる。
私のことを大切に思ってくれているだろう人がいることも知っている。
けれど、その人たちは、私がいなくてもこの世に存在し続けることができるだろう。
私がこの世に引き留める存在がそもそもいないのだ。
私をこの世に引き留める存在もいないのは当然のことだ。
それを求めることは、果たして恋愛なのだろうか?
それとも、そんな存在が必ず現れるはずだと考えていること自体がおめでたいのだろうか?
誰もがどこかで妥協しているのだろうか?
それが「フツー」の通過儀礼なのだろうか?
「フツー」にもなれず、かといって「フツーじゃない」人にもなれない私は、いったいどうやったら、いったいいつになったら終われるんだろう?
久しぶりに『HER』を読み返して、言葉があふれてしまい思わず連続投稿。
ごめんよ、しあん。
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