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それぞれのカミングアウトのかたち

どうも、七人の侍のバカデカ画像でしあんを困惑させた緑青です。
本noteは基本的にはしあんと緑青の交換日記だが、それとは別に、時々個人の書きたいことも載せていければと思うので、そういったものは「雑談」として聞いていただければ幸いである。

さて、カミングアウトという話題がしあんから出てきた。
正直に言うと、しあんからカミングアウトされた時のことはあまり覚えていない…(池袋の喫茶店の光景はうっすら覚えている)…が、それだけ今の私にとってしあんがそうであるということが自明のことなんだと思う。
(あとごめん私は本当に忘れてしまう人間なので…)

カミングアウトされたときに驚いたか。これも正直よく覚えていないのだが、少し驚いたような覚えはある。そうだったのか、知らなかった、というような。でも、そう言われてみれば何かしらの違和感は抱えていそうだな、とか、同性のことも恋愛対象に入っているのかもな、みたいなことは普段から感じていたような気もして、しあんの言葉を聞いて「なるほど」と納得したような覚えもある。

また、その時に私は相手を傷つけるような言葉を用いていなかったか?といったことも心配したような覚えがある。これはカミングアウトされる側としていつも気にしてしまう部分である。

「カミングアウトする相手をどう決めているのか?」という疑問に対し、しあんは「なんとなくこの人ならいけそう」という言葉で表していたが、私だったらこう言語化するだろう。
「カミングアウトしても、その後も変わらず「私」として接してくれると信じられるかどうか」

これは大きい気がする。
カミングアウトした瞬間に「そう」である人間として自分を扱う人は、人を「区別」してその枠の中に閉じ込めて扱う人であり、差別的意識に親和性の高い人だと思う。そういう人は概して普段からそういった言動を行っていることが多いため、自分のセーフスペースとは感じられないのでカミングアウトの対象からは外れる。

幸いなことに、私はしあんにとってそうではなく、カミングアウトできる人間として感じてもらえたようである。

そして、私も自分自身の気づき、先日書いたジェンダーアイデンティティのことについて、真っ先にしあんに伝えた。
私はまだ自分が何者なのか、自分のジェンダーアイデンティティが定まっていないと感じるため、それについて人に話しながら考えるという時間は貴重であり、しあんはそれができる相手なので、これからも時々話していきたいと思っている。

ちなみに私も職場や家族にはこのジェンダーアイデンティティのことは伝えていないが、私の服装などのジェンダー表現は中性的なものが多いため、周りになんとなく漏れているものがあるだろうと感じている。
そして、エリス・ヤングの本を読み終えたとき、自分が何者なのかようやくわかり始めたという喜びが大きかったため、その喜びを伝える意味もあって、しあんのほかにも何人かの友人にカミングアウトを行った。

カミングアウトというのは当事者にとってとても大きな意義を持つ、一般的には一大イベントなんだろうと思うが、私にとっては自分の状態を言語化して確かめる、それを相手と一緒に考えていくという意義を併せ持つものだと思う。これは私のジェンダーアイデンティティがクエスチョニングだということも大きいかもしれない。だから何となく話せそうな友人には、これからも気軽にカミングアウトをしていきたいと思っている。
また、それを行うことで、友人のほうでも「実は私もこんなジェンダーの揺らぎを経験したことがあるんだよね」という告白を得られることもあるだろうし、それも受け止めていきたいと思っている。

これはカミングアウトを軽視した行為だろうか?
でも私はカミングアウトをやはり大切なものだと思っているし、カミングアウトされたら必ず「それを私に話してくれてありがとう」と感じる。

私のやり方が誰かを傷つけるものでないことを祈るしかない。
もし何か感じることがあったら、ぜひコメントで教えてください。
人それぞれのカミングアウトの仕方がある、そう受けて止めてもらえるなら幸いである。

(緑青)

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