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“公園”づくりの原体験

人生に影響を与えるものとは?

人が今のその人らしくなった、その大きな理由はなんだろう?
受け継いだ遺伝子、親の躾、恩師からの教え。おそらくそのどれもが影響を与えていると思うが、その人が暮らす「まち」そのものが人に与える影響ってじつは大きいのではないだろうか。

まちからの学びや気づきは幼少期だけでなく何歳になっても続いていくものと考えると、じつは総量が一番大きいのはまちの影響なのかもしれない。
それなのに、「自分はまちに育ててもらった」と意識している人って一体どれぐらいいるのだろう?

あなたは、自分の生まれ育ったまちが好きですか?

こんなことを思ったのは、僕が自分の育ったまちが好きではなかったからだ。

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東京都町田市で生まれた後、1歳から16歳まで神奈川県津久井郡城山町若葉台という場所に住んでいた(現在は相模原市に合併されて、相模原市緑区)。なので、出身地を聞かれたら、城山町若葉台と答えるのが普通だと思うが、それをひた隠しにしていた。

僕は出身地に異常なほどのコンプレックスを抱えていたと思う。それは、津久井「郡」という”田舎”であること以上に、「若葉台」の部分に受け入れられない恥ずかしさを感じていた。

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若葉台は、多摩ニュータウンなどで有名な東京郊外の大規模な開発が進んだ時期に作られた計画都市で、山だった場所を切り開き、約900個の建売戸建を大手ディベロッパーが開発した。最近知ったが建築家の黒川紀章がグラウンドデザインをしたそうだ。という部分からもとても整備されたきれいなまちである。区画はしっかりとした広さが取られ、統一された外観の家がずらっと並び、緑が多く、道や学校も整備され景色もいい。
そして、そのまちに住む多くの人は他所からの移住者でその戸建を買える年収を持つ大手企業のサラリーマンの父親と専業主婦の母、子供は2人か3人、犬か猫を飼っていて家には車が2台止まっていた。

多様性のない平和な人口都市

小さな頃から、このまちにずっと違和感を感じていた。
それは映画マトリックスの中で主人公のネオが自分の世界に違和感を感じたのに近い感覚だと思う。ここは貧富の差や家庭環境の差がないから争いが少ない平和なまちだった。しかも駅からも遠く、幹線道路への抜け道でもなく、住人以外が一切足を踏み入れない、まさに世界はこの中だけで進行しているような場所だった。

この多様性のない作られたまちにずっと感じていた居心地の悪さが確信に変わったのは、小学校4年のときに父親に連れられて初めて新宿に行った時だったと思う。東口の紀伊國屋書店に行ったのだが衝撃を受けた。人の多さへの驚きもあったが、それ以上に百貨店からビジネス街、そして歌舞伎町やゴールデン街までが隣接する新宿という街と行き交う人の多様性に、あ、これが世界なんだと、思った。そして、自分が暮らしているのは偽りの世界なのだと。

でも、周りの子供はもちろん、大人もそんなことに疑問や違和感は感じていないようだったし、実際その話をしても誰もピンと来ていないようだった。僕は孤独すら感じ始めていた。

東京への引越しと理由探し

高校1年の夏に家族で東京の世田谷に引っ越した。
僕がこのまちを出たいと言い続けたのに根負けした母親が、父の会社の社宅になんとか入れるように交渉をし、半ば逃げるような引っ越しだった。
それからの僕は若葉台を自分の人生から消すことに必死だった。自分でも異常だと思うぐらいの執念で、実際、20代後半にはあそこに住んでいたのは本当に夢だったんじゃないかと思うぐらいにまでになっていた。出身を聞かれた時は「東京(町田市)生まれです」と答えていた。

その一方で、なんでそこまで育ったまちを嫌い、それを隠すのか。というのと、何が違っていたらあのまちを好きになれただろうかと考え続けていた。だって故郷が嫌いだなんてあまりにも寂しいことだから。

僕がたどり着いた答え。それは、まちを嫌い、隠すのは、多様性がない人口都市であることそのものではなく、歴史も多様性もなく、文化が生まれない土地で育った自分が、深みのない薄っぺらい人間だとバレてしまうのを恐れていたからだ。その後、出会った魅力的な人たちの悲喜交々な幼少体験を聞くたびにその恐れはさらに強くなっていった。

何が違っていたら?

では、自分では親も生まれる場所も選べない現実の中で、あのまちの何が違っていたら変わっただろう?

僕が出した結論。それは、公園だった。
若葉台には複数の公園が作られたが、そのどれもがブランコと滑り台と広場がある似たような公園だった。

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家や学校やそこに移住する人たちの家族構成や職業は変えられなかったとしても、もしあの公園のひとつでもスケートパーク(スケートボードを滑るために作られた場所)だったとしたら?

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スケートボードを始めるやつがいて、番地を超えて人が集まり、若葉台だけでなく、そのまわりに住む代々そこの土地で暮らしてきたローカルの家の子供たちが通ったかもしれない。そこからスケートが上手いヒーローが生まれ、壁に絵を描き始めるやつがいたり、そこで恋が生まれたかもしれない。またはスケートパークを使って違うことを始めるやつがいて、そこから独自の遊びや文化が生まれたかもしれない

“NEWPARK”に込めた想い

公園は人と人、人とまち、人と自然をつなげるハブで、もっと自由な場所になれるはずだ。ただの広場ではなく、使い方は利用者に委ねられるのだが、そのアクションが起こるキッカケやファシリテーション、つまりコミュニケーションを生まれやすくするデザインがもっと必要だと思う。

まちが人の人生に影響を与えるものだとすると、その装置としての公園を変えられたら、もっと自分のまちや、そこに住む人、そして自分自身を好きと言える人を増やせないだろうか

NEWPARKでは、そんなまちの”公園”づくりを目指していきたい。



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