見出し画像

道草の家のWSマガジン - 2023年4月号

今日という日がもうすぐ終わる - スズキヒロミ

明日にはもう故郷に帰るのだ と
ずいぶんとまた 急な話
そういえば 昔 それとは知らず
君の故郷を 旅したことがあった
境を越えると
行く手には はるか 山の壁
後ろにもまた 山の壁
右を向いても 左を向いても
ぐるりと囲む 山の壁
あれはまるで
お釈迦様の手のひらだ
ああそうか だから君は
故郷を出ようと 思ったんだね
お釈迦様の その手のひらに
君が 帰る
私には わかる
君の前途は 洋々だ

今日という日がもうすぐ終わる
しこたま呑んで
最終列車がやってくる
さようなら
左様ならば
君は なんて言おうとしたの
さようなら
したはずの君が
連絡通路を駆けてくる
あぶないよ どうしたの ときいたら
また会おうね と
最後の握手
そう これは 最後の握手
だけど
また会おうね と
心から


燃えさかる - 神田由布子

今日は花が燃えさかる
儚いなどと誰がいったのか
桜が燃えている
公園をとりまく薄墨の炎
切りつめられていない樹は
炎の姿になることを
知っていますか


つちのこ - カミジョーマルコ

ぼくはホットケーキを焼きながら本を読む
ついうとうととまどろむ

あのこはホットケーキの甘いにおいに包まれて
2階のへやでまどろむ

ねこは階段のまんなかで
堂々としたつちのこになってまどろむ

みどりの雨が 降って
降って
降っている
休みの午後


ことばはどこから来るか - 下窪俊哉

 ことばはどこから来るんだろう。この、ことばというものは、誰かと共有して初めて存在する。誰かというのは、いま共に生きている人かもしれないし、そうではないかもしれない。ことばは、誰からか受け継いできた文化である。私も、それを受け取ったひとりだ。
 これは小川国夫の好きだった話で、ホフマンスタールによると、ひとりの作家がほどほどに長生きするとして、140年ほどの肉声を聴くことができるという。祖父母の世代から、孫、あるいはひ孫の世代まで。
 肉声、つまり生の声である。それが音という物質となって耳から、私のからだに入る。その声は、いつでも自分の体内で鳴っているような気がする。
 母語のことを英語で母の舌(mother tongue)という。ことばは母から貰うものだということになるだろうか。生まれてきて聴かされる人の声が、ことばの起源になる。
 つまりことばは、まず声であり、音である。
 一説によると、世界には6、7千の言語があるそうだ。しかしそのうち、文字をもつ言語はごく一部であり、殆どの言語は文字をもたない。
 イサク・ディネセンの有名な小説『アフリカの日々』に、こんな話が出てくる。

 あの時代にくらべて流行はかわり、物語に耳をかたむける技術はヨーロッパでは失われた。文字を読めないアフリカ人たちは今もこの技術を身につけている。「ある男が野原を歩いておりました。歩いていると、そこでもう一人の男に出会いました」という具合に物語をはじめれば、語り手はもう完全にアフリカ人をつかむことができ、彼らの思いは野原にいる二人の男たちの歩く道を想像し、そこを共に歩くのだ。(横山貞子・訳)

 印刷技術の発達により、失われたものもあった。いま「読む」というとき、殆どの人は文字を目で追うことを思い浮かべる。
 日本と呼ばれているこの島国でも、かつて物語とは耳で受け取るものだった。もともとは文字をもたず音だけであったところに、大陸から輸入してきた文字をあてて、書き記すということを始めた。しかしその後もしばらくは、殆どの人にとって物語とは聴くものだったはずだ。このことは、書くうえでいつも忘れないでいよう。
 私はこどもの頃、『兎の眼』という小説を母に音読してもらい、まず耳で読んだ。その作品に登場するこどもや先生はみな大阪弁で話しているが、母は(私もだが)鹿児島の人なので、鹿児島ふうの大阪弁になっていたはずだ。大人になって初めて大阪へ行った日、大阪と鹿児島の人の話し方は似ている、と思ったのを覚えている。そういった声の蓄積によって、私の書くものは支えられている。
 文章とは、声を文字によって記録したものである。山本ふみこ流に言うと、書かれた文章とは楽譜のようなものなのである。
 だから、いまの作家はみな、「話すように書く」と「書くように話す」の間で揺れている。
 ことばという音の中に、つまり聴覚を通して、視覚も、嗅覚も、味覚も、触覚も現れる。五感という分類はしかし便宜上の分け方で、全部つながって、溶け合っているんだろう。
 そこにはイメージという風が吹いている。

(私の創作論③)



バーガー屋の話 - UNI

 わたしはあたらしいバーガー屋のゴミ箱近くに座っている。ゴミ箱の前で人はみな静かで、素直にゴミを分別して片づけていく。おじさんがひとり、ゴミ箱の前で「はぁ」とため息をついた。バーガーの包み紙をグシャグシャと丸めて捨てた。トレーに敷かれた薄い紙も音を立てて捨てた。

 広い店内には五、六組が離れて座っている。笑い声と話し声はわたあめのように、そしてポン菓子のように、ときどき浮き上がり、軽くはぜる。その種はなんなのか、わたしの席まで届かない。あたらしいバーガー屋は広すぎるから。

 店内を漂うラジオ番組を模したBGMも、わたしの耳に引っ付いたり、離れたりする。わたしをからかうように渦を巻いて踊るから、この広い店内にひとりで座っているのはわたしだけだと気づかされる。

 わたしの耳の奥で金属加工音が鳴る。音と空気をチューニングするかのように。

 このあいだ、彼女がふらりと姿を見せてくれた。あっ、来てくれたん、そう思ったときにはわたしのなかでわたあめとポン菓子と似非ラジオと金属加工音がいっせいに鳴って、彼女は、ふん、と去ってしまった。

 西から来てくれたんだろうか。
 こんなに遠くまで来てくれたのに声を掛けられなかった。首の骨が垂れてしまうのを感じる。
 西にいた日々をわたしは思い出す。この島の言葉と違い、西の言葉はうねうねと泳いでいた。あそこにいたのは、コォヒィ、ショォトケェキ、カフェラテでよろしぃでしょうかと、半音ずつ下がったり、上がったり、歌うように喋るひとたちだった。隠されていた母音は伸びをして、その手足を見せ、好き勝手に動いているのだった。
 彼女の言葉を聞きたい。耳が彼女の言葉を求めてぎゅうと縮む。

 そのかわりにわたしは大きな島の大きくてあたらしいバーガー屋で店員と言葉を交わした。
「dポイントカードか楽天カードはお持ちですか?」
「持ってません」
「なんでですか」
「ポイントカードがこの世には多すぎるからです」
「じっさいのカードじゃなくてアプリとして持てますよ」
「アプリもいっぱいあるから、もういいんです」
「アプリは無限に持てますよ」
「本当に?」
「たぶん、本当に」
 わたしはバーガー屋の店員の名札を見た。〇◎□●と書いてあったが読めなかったので尋ねた。
「失礼ですが、お名前は?」
「〇◎□●です」
「なんと読むんですか?」
「読み方は無限です」
 店員は眉を軽くあげて楽天カードのリーフレットをわたしに渡した。
 
 バーガーを食べたら彼女を探しに駅まで歩いてみるつもりだ。でも、彼女がどんな言葉を使っていたのか、本当のところ、もう忘れかけている。


犬飼愛生の「そんなことありますか?」⑤

そこのけそこのけ、あたしが通る。ドジとハプニングの神に愛された詩人のそんな日常。

「最強開運日」
 突然だが、車を買い替えることになった。まあ突然とは書いたが、我が家では今乗っている車の新しいバージョンがでたら買い替えようと以前から計画していた。車に特別こだわりがない我が家は現在乗っている車に特段の不満もなかった。むしろ、適度な大きさで運転しやすく、使いやすい。困ったことといえば、この車は超がつくほどの大衆車であるがゆえ、大型駐車場などでよく同じ車、同じ色の車と隣あってしまい私が他人の車であるその車の鍵を開けようとしたり、駐車した位置を見誤って近づいたりしてしまうことくらいであった。(ほら、ドジの神に愛されてしまうから)。
 今の車も発売されてすぐに購入したのだが、そこから新型が発売されるまで7年かかった。それまで車検や点検も同じディーラーで同じ営業マンに担当してもらっていた。その営業マンも我が家が今以上の車を望んでいないことは十分わかっていたので、新型が出るまでじっと我慢していたのだろう。新型発売が発表されるとすぐに連絡をしてきた。これが昨年の9月のことである。昨年はまだコロナ禍の真っただ中であったことに加え、ウクライナとロシアの戦争もあり世界のさまざまに影響があり、それは車業界でも同じこと。いま購入しても納車されるのは3ヵ月後の12月ということだった。まあそれは仕方がない。しかし12月になっても部品の供給が遅れており、納車は2月か3月はじめになりそうだと連絡が入った。おお、そちらも大変ですね、ということで我が家では待つより方法がないので静かに了承。そこで家族で話し合い、確実に納車できる3月の21日に納車してもらうことにした。年度末はいろいろと忙しく、都合がいい日があまりなかったというのもあるが、実はこの日は年に1回の最強開運日として前からチェックしていた日なのだ。「一粒万倍日いちりゅうまんばいび」と「天赦日てんしゃび」と「虎の日」が重なった最強開運日。ふだんこのような日取りはほぼ気にしないが、なにかこの時はやたらと縁起がよさそうなので待ちに待った納車は絶対にこの日が良いと決めていた。そして、納車の2日前、あの電話が鳴ったのだ······。「実は、納車予定だった車に傷が見つかりまして、21日に納車することができません······」。その時、時刻は夜の8時。電話を受けたのは風呂場にもスマホを持ち込んで動画を楽しんでいる夫氏である。風呂から慌ててでてきた夫氏の頭からは心なしか多めに湯気がでている気がする。こちらは納車当日に車祓いくるまばらいをする予定やらそのあとの予定やらぜんぶ決めていたのである。それに、もっとも重要な問題があった。それは「あと数日で今の車の車検が切れる」ということであった。翌日、台車の話などをするために夫氏がディーラーに電話をかけるとなんと休業日で電話がつながらない。おいおいおい、それじゃ、実際には納車ができないってわかったのは納車前日の夜8時だったってこと? それまで何してたの? いまこそ、私はこのエッセイのタイトルをみなさんと唱和したい。「そんなことありますか?」と。そして、さらに残酷な知らせはこの「車の傷」についてはパーツを交換するとかではなく「わからないように、直して納車する」ということだった。写真を見せてもらったのだが、ちょっとした傷ではなく前の方に結構がっつり傷がついていた。これを見逃して、納車前日に気が付きますか? もう一回ご唱和願いたい。「そんなことありますか?」。これには普段温厚な夫氏もさすがに怒っている。この人、こんな変な私と結婚するんだから世界的な希少価値があるうえに、ふだんは弱酸性の石鹸のようにおだやかな人なのだ。その夫氏が怒っている。これは大変なことだ。「じゃあ、なんですか、あなたシミのついたソファを「わからないように染み抜きするので、新品として買ってくださいね」って言われて気持ちよく買えますか? おおん? ソファの何十倍、何百倍もするモノ売っといて! そもそも最初の納車日からすでに3ヵ月も待たされて。おん? さらにミスで待たすとは! おうおうおう! しかもこの日は妻が最強開運日として納車日に最適な日だからってすごく楽しみにしていたんですけどッ! どうしてくれるんでぃッ! てやんでぇ!」と営業マンにキレている。(若干盛りました)。弱酸性の石鹸はどこに行った。めちゃくちゃ混ぜるな危険のカビキラーみたいになってるやないか。この夫のキレ具合に私は正直ひいた。おおお、これが車のこととなると急に敏感になりキレると言われる日本人らしい反応か······。不機嫌を極めた夫氏は「年末年始にコロナに罹ったせいで初詣に行きそびれたのが原因かもしれない。いまから神社に行く」と大雨の中、神社に行きお札をもらってくる始末。なんだかめちゃくちゃだ。最強開運日なのに納車されないトラブルに合う我が家。最強開運日なのに客からブチ切れられ営業成績もなくなるかもしれない営業マン。神たちも右往左往している。
 このことを知人に話したところ、「それはやっぱりこの原稿を書くために起きたハプニングなのでは?」と言われた。なるほど、神はここにいたのだ。本当にドジとハプニングの神は私を愛している。
※ちなみに、少し時間はかかりましたが本日無事に納車されたことをご報告いたします。



今日の空の色は 熊本旅行 前編 - RT

2月11日 曇り 忘青色
作家の坂口恭平さんの絵画を買った人達から集めて熊本の美術館で展示するという話がTwitterのTLに何度も流れて、坂口さんの絵を一枚持っている。でもわたしにとって絵のタイトルを調べて、メールで連絡して、絵を梱包して送るという作業がどれも難しく感じて知らないふりを決め込んでいた。締切日を過ぎたけどまだ募集が終わっていないようだったので連絡してみることにした。なんとかなるように思えてきたのだ。絵のタイトルは画集を開いたらあっという間にわかった。メールをしたら丁寧な返信が来て、発送する流れなど説明してもらった。宅配便に貼るラベルや貸し出しの契約書類などが送られてきて、書類にサインして、家にちょうどいい箱があったので絵を分厚いプチプチで丁寧にくるんでこの面を上にとか上に物を置くなとかいろんなシールを貼って発送した。一個ずつやってみたら案外できた。2日ほどして壊れることなく到着したと知って宅配便の業者さんに感謝した。絵と一緒に心の一部分は熊本に飛んで行ってた。それから熊本や九州に関する本を取り寄せて何冊も読んだ。熊本に行く。人生で初めて九州に上陸するのだ。

出発の日そわそわして一時間以上前に新大阪に着いてしまった。最寄りの路線の電車が遅れることに慣れすぎて、早めに家を出て現地に着いてうろうろすることが多い。トイレに行ったら出かける時は確か入っていたタオルハンカチがない。いきなりトラブルかと思ったけどまあ仕方がない。とにかく新幹線に乗ることだけ考えよう。チケットは発券している。新幹線は30分くらい前からホームに停まっているのかと思っていたけどギリギリになるまで来なくて、数分で乗り込むなんて大変だと思った。しかも待つ場所を間違えていたらしくて、駅員さんが声をかけてくれてここには停まりませんよと言ったので急いで移動した。横に並んでいた男の人と、ややこしいですねーと言い合って、その人の後ろを着いて歩いて無事に乗れた。
新幹線の席は好きなときにトイレに行けるようにと思って通路側を予約してあった。そしたらそれで結構気を遣うことになると帰りに知るのだがこの時点では気が付いていない。隣の席は穏やかそうな女の人だった。よろしくお願いしますと頭を下げる。感じよく挨拶を返してくださってこの旅はいいものになりそうだと予感した。荷物は足の後ろにすんなり収まった。チャック付きトートバッグに一泊の荷物を詰め込んできた。荷物置き場の心配が消えたのでほっとする。上着とショルダーバッグを膝の上に置いて、新幹線が動き始めたので本を広げた。スタンダードブックストアさんで買ったオオヤミノルさんの「喫茶店のディスクール」という本。喫茶店の経営者の視点から描かれていて、喫茶店とはなにかと考えさせられる。自分がお店をやりたいというのなんて甘っちょろく思えてくる。到底無理なのかもしれない。美味しい珈琲を飲んでもらいたいという気持ちだけはある。それは大切なことのように思える。お金はない、人脈というほど人に心を許していない、なのになぜやりたいのだろう。などと考えているうちに新幹線は尾道だという。尾道に行ってみたい。10年以上前に尾道に行くつもりでるるぶを買っていたのに身内の不幸で流れて以来何故か行けていない。階段がいっぱいあるみたいだから若いうちに行っておけばよかった。既に楽しむことより息が上がることを気にしている。「頁をめくる音で息をする」の著者の藤井さんの古本屋さんに行ってみたい。馴染みの客になれないのが残念だけれど。
再び本に目を落とした。集中できない。呉を通った。呉には姪っ子が住んでいるが元気にしているだろうか。頼りにならない叔母で申し訳なく思う。叔母さんは自分ひとりを生かすことでいっぱいいっぱいだ。兄とももう長いこと話していない。
行ったことのないあちこちに少しずつ心を残しながら新幹線はようやく本州を出た。本を読み終わったのでお水を飲んだり車内を見回したりする。ほぼ満員乗車で、九州に行く人多いんだなと思う。
北九州。ホームレスの人を支援しているNPO法人抱樸のことを考える。ほんの僅かだけど毎月お金を送っていて、自分が働けるうちは続けたいと思う。希望のまちプロジェクトという、元暴力団の事務所だった土地を買い取って行きたい人が安心して住めるような場所を作る事業を進めているそうで、困ったことがあればそこへ行けばいいと思って親戚の家が増えるような気持ちになっている。
乗り換え予定の博多に着いた。明太子買いたい。これから泊まるのにまだ早いか。何気なくエスカレーターに乗ったら立ち止まる側が大阪とは反対なことに気がついた。気づいてよかった。でも大阪みたいにみんな急いでエスカレーターを歩いていなかった。伸び伸びとした気持ちになる。もう九州を好きになっている。
熊本までもう一度新幹線に乗る。九州には新幹線が走っているのだ。すごい。昔ふるさとの和歌山に新幹線が走っているのかもと思っていた。そんなにどこにでも走っていないと知ったのはいつごろだっただろうか。ここでもう一つのことに気づいた。新幹線には何両編成というのがあって、それによって待つ場所が変わってくるのだ。新幹線に乗るのは初めてではないのに今までたまたま運良く乗れていたのだろうか。それとも最近変わったのだろうか。家族のLINEグループにそのことを書いて送ったら、そうなんやという返事が来た。 
再び通路側を予約していた。隣に男の人が座っていて頭を下げたけどスルーされてふんと思う。いいや、一時間で降りるんだ。景色を楽しみながら行こう。窓側にすればよかったな。お腹が空いてきたからチョコレートを一粒ずつ口に放り込んで水を飲む。着いたらなにか美味しいものを食べるんだ。そうだ熊本市現代美術館の場所や最寄り駅はどこだったっけ。閉館の時間、乗り換え案内、ホテルとの位置関係、橙書店と坂口恭平さんのmuseumは隣にあると言ってたな。今日行けるかな。調べることがいっぱいでスマホを操作し続けている。隣のおじさんにスマホばっかりと呆れられているかもしれないという考えが頭をよぎるがわたしは忙しいのだ。橙書店のHPに何度もアクセスする。臨時休業と書いてあった。今日は石牟礼道子さんの不知火忌の法要があるようだからもしかして行っておられるのかな。伺うのは明日にしよう。いくつかの画面を保存して一息ついたら熊本に着こうとしていた。車内放送で「あまくさみすみ線の乗り換え」と聞こえる。その響きに惹かれた。天草? 行きたい。一泊旅行なのでひたすら熊本の市内を歩き回ろうかと思っていたのだけど。着いたら調べてみよう。
ようやく熊本に着いた。ずっと座っていたのにくたくたになっている。あまくさみすみ線の乗り口を確認する。明日朝一でここに来よう。美味しいものを食べたかったけどとにかく座れるところに行きたいという気持ちに変わっていた。スタバが混んでいた。駅の建物から出ると街の風景が広がっていた。空は曇っていて白地に墨を一滴だけ落として混ぜたようだった。西に進んできて雨雲に近づいてしまったのかな。それとも街だからかな。熊本は想像したよりもずっと都会だった。パステル画のような風景はちょっと郊外にあるのかもしれない。少し歩いて市電の駅を探すけど見つからなくてまた熊本駅に戻ってきた。暖かくて汗ばんでいる。風に湿り気を感じた。明日着るつもりで持ってきた服装は暑すぎるかもしれないなと思う。パン屋さんに空席があるのが見えたので入ることにした。(続く)


まだ夢は終わっていない - なつめ

あっとゆうまに夢から覚めた

わたしは現実に戻って来た

出会ったことのない人たちと

一緒に過ごした楽しい時間

一生出会うことのない素敵な時間

私の宝物となった時間

もう少し夢の中にいたかった

私を夢から目覚めさせたのは

そばにいる息子だった

でもまだ夢は終わっていない

わたしは現実と夢の両方の中で生きている

現実と夢の間を行ったり来たりしながら


表紙・宮村茉希


巻末の独り言 - 晴海三太郎

● すっかり春の、晴れた日。今月もWS(ワークショップ)マガジン、お届けします。ことばの種が、いろいろと寄せられています。その種が今後どこで蒔かれ、どのように育つのか、あるいはしばらくここに保存されるのか、わかりませんが、楽しみに読んでいようと思います。● 先月、日常を旅する雑誌(というキャッチフレーズを思いついてからも、もうすぐ10年たちます)『アフリカ』vol.34を出しました。このWSマガジンからも2篇、推敲や校正を経た作品が載っています。ぜひご一読を。● このWSマガジン、参加方法は簡単で、まずは読むこと、次に書くこと(書いたら編集人宛にメールか何かで送ってください)、さらに話すこと、というのもあり「WSマガジンの会」というのを毎月Zoomを使って画面越しにやっています。全てに参加しなくても、どれかひとつでもOK、日常の場に身を置いたまま参加できるワークショップです。● 書くのも、読むのも、いつでもご自由に。現在のところ毎月9日が原稿の〆切、10日(共に日本時間)リリースを予定しています。お問い合わせやご感想などはアフリカキカクまで。


道草の家のWSマガジン vol.5(2023年4月号)
2023年4月10日発行

絵(表紙)- 宮村茉希

ことば - RT/犬飼愛生/UNI/カミジョーマルコ/神田由布子/下窪俊哉/スズキヒロミ/なつめ/晴海三太郎

工房 - 道草の家のワークショップ
寄合 - アフリカの夜/WSマガジンの会
読書 - 波をよむ会
放送 - UNIの新・地獄ラジオ
案内 - 道草指南処
手網 - 珈琲焙煎舎
名言 - 木のことは木に訊け。
謎謎 - ゆで卵を茹でたのは、だーれ?
天気 - 忘青色
準備 - 底なし沼委員会
進行 - ダラダラ社
心配 - 鳥越苦労グループ
音楽 - 口笛楽団
出前 - 春風弁当
配達 - 一輪車便
休憩 - マルとタスとロナの部屋
会計 - 千秋楽
差入 - 粋に泡盛を飲む会

企画 & 編集 - 下窪俊哉
制作 - 晴海三太郎

提供 - アフリカキカク/道草の家・ことのは山房

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?