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道草の家のWSマガジン - 2023年6月号


犬飼愛生の「そんなことありますか?」⑦

そこのけそこのけ、あたしが通る。ドジとハプニングの神に愛された詩人のそんな日常。

「リサイタル、前夜」
 私の母は以前、自宅で近所の子供たちにピアノを教えていた。実家がピアノ教室だったので私も一応、ピアノが弾ける。私は母の期待を一身に受け、隣町の有名なピアノ教室に通わせてもらったが、そこの大先生は黒柳徹子と塩沢ときを混ぜてスパイスを足したような風貌で迫力があり、なおかつめちゃくちゃ怖かったのでピアノがへたくそだった私はさらにピアノが嫌いになったし、私には才能がなかった。母が私の音大受験をあきらめてくれたのは、たしか私が中学3年生くらいの時だった。これでようやくピアノから離れられる、と安堵したものだった。ところがDNAの深い業とでもいいましょうか、私は自分の子供が3歳になると「音楽が好きになればいいな」などと言ってついピアノ教室に入れてしまった。ピアノの練習というのは毎日せねばならぬとされていて、練習がそれほど好きではない、いやむしろ嫌いな子供に練習させるというのも骨が折れる。何年か無駄な苦労をしたが、息子もたいしてピアノが好きではなさそうだったので適当なところでピアノからはひきあげることにした。
 ピアノはやめたものの、息子は中学校で吹奏楽部に入り別の楽器をはじめた。別の楽器となるともう私の出る幕はない。親の監視下から自由になってみると、息子はとたんにのびのびと音楽を楽しみ始めた。吹奏楽部であるから、ときおりイベント出演やコンサートのようなものがある。先日、わりと規模の大きなリサイタルがあったのだが前日の夜になって、息子が言う。「うちに、ディズニーで売っているキャラクターのカチューシャない?」「なんで?」「明日のリサイタルで、ディズニーメドレーをやるから、そのときに必要なんだよね、みんなでつけるから。」なぜいま言う? 時間は夜10時である。よくパーク内でみんながつけているディズニーキャラクターのカチューシャね······。ない。ないよそんなもん。何年か前にメルカリで全部売った。ええ、私が売りましたとも。家庭科実習の前日の夜に「豆腐とネギがいる」と言い出したときは深夜営業のスーパーが助けてくれたが、さすがに今回ばかりはスーパーには売っていない。万事休すか。私はリビングを見渡した······。そのとき、見つけてしまったのだ。棚の上にディズニーのぬいぐるみがあることを。大きさはちょうど手のひらサイズ。大きすぎず、小さすぎない。そして、私は思い出したのだ。自宅にあるハロウィングッズの中に、安っぽいカチューシャがあったことを。
 こうなったらやるしかない。私はハロウィンのカチューシャについていた猫耳だかなんだかをむしり取り、誰かがお土産でくれたディズニーのぬいぐるみのお尻部分に針を刺し、カチューシャとぬいぐるみをすごい勢いで縫い付けた。うん、これはディズニーキャラクターのカチューシャで間違いない。誰がなんといおうと、ディズニーキャラクターのカチューシャだ。ちょっと立体的すぎるが、背に腹は代えられない。真夜中に完成したそれを、息子はそっと受け取った。
 翌日、見に行ったリサイタルも終盤に差し掛かりついにディズニーメドレーの時が来た。みんなミッキーマウスやミニーちゃんの「耳」のカチューシャをして出てきた。息子が舞台袖からカチューシャをして出てきたとき、客席がにわかにざわついた。それはまるで、平成の時代に振付師として活躍したラッキィ池田の再来を思わせた。ラッキィ池田が頭にジョウロのゾウさんを乗せていたのと同様、息子はくまのプーさんを頭に乗せて登場した。恥ずかし気もなく。悪目立ちしている。私はその姿をみて身もだえするほど笑った。自分が作ったものなのに。こんなに面白いと思わなかった! 客席のざわつきを気にすることもなく、スッと息子が楽器を構える。顔の真剣さと頭上のプーさんとの落差がすごい。演奏するたびに不安定なプーさんが頭上で揺れる。プーさんの表情もいつにもましてファニーに見える。プーさんが落ちはしないかとぜんぜん演奏が頭に入ってこない。前にズレて落ちそうでひやひやする。いっそもう取ってくれと思うのに、息子は体幹を駆使して頭上のプーさんを死守している。必死の演奏! プーさん頑張れ! あと少し! 頑張れ! もはや客席からはプーさんコールさえ聞こえるような気がする。プーさん! プーさん! ほとばしるパッション! リズム! グルーヴ! プーさんのはちみつぶっしゃー!(なし汁みたいにいうな)。
 吹奏楽部にとってディズニーメドレーは定番らしいので、今後もディズニーのキャラクターのカチューシャは必要になってくるだろう。今度は早めに用意しておこう。ぜひ、正規品を。今月もこのセリフを置いておく。本当にドジとハプニングの神は私を愛している。


アリもキリギリスも - スズキヒロミ

朝の日課で
シュンくんが朗読をする
今朝は「アリとキリギリス」
読み終えたシュンくんはひとこと
「アリはかしこいね」
と言い残してマリカーを始める
キリギリスの子にしちゃ出来すぎだ

でもねえ、パパはねえ
そのアリが「かしこい」とも思えないんだよね最近
ちょっといじわるだしさ
なんていうか、んー
···

アリもキリギリスも
「そうせざるをえないから、そう生きている」
っていうかさ、
···

え? うん、そうだね
あ持ってない! ありがとう
じゃあ行ってきます


空を見なかった - RT

起きた時、昨夜のハヤシライスのルーを冷蔵庫に入れてなかったと思った。洗い物だけして寝てしまった。梅雨時に致命的なことをしてしまった。今から食べて残りを冷蔵庫に入れようと思って六時台に起きた。珈琲を煎ろうと思った。
台所に行ったらごみの日だというのを思い出した。いつも前夜にまとめておいて朝主人が出していってくれることが多いのだけどすっかり忘れていた。冷蔵庫にあった娘の食べ残しを処分することにして、袋を二重にして出した。前に一度カラスに中身をバラバラにされたことがあってお隣さんが教えに来てくれた。一瞬気になったけどなるべく早く回収に来てくれたらいいなと考えていた。
今日は仕事を休んで出かけるから一回洗濯を回していこう。トイレに入っていたらインターホンが鳴った。宅配かな。来るって聞いてないけどと慌てて出たらお隣さんが難しい顔をしているのが写って「カラスが来たみたいなんですよ」とおっしゃった。なんとなくわかっていた気がした。すみません! と言って階段から落ちないように駆け下りて玄関を出たらお隣の家の前まで中身を撒き散らされていて、掃除しながらガーリックナンが原因だと察した。大きいから咥えては行けなかったようだった。
ツイートしたけどつい最近カラスに後ろから襲われており、このごろカラスが荒れている感じがする。いったいなんなんだろう。調べてみたらこの時期は繁殖期で、だからエサもたくさん要るのだろう。縄張りに入った人を襲いもするらしい。色んな声色でカアカア言ってた時点で威嚇されていたのだった。でも、わたしの通勤路を歩くくらいいいじゃないか。大きな声で鳴いてるから見たのは悪かったと思っているよ。けど巣があるなんて知らなかったし悪いことしようと思ってもなかった。それとごみを撒き散らして行かないでほしい。あんまりだ、あんまりだよ。
主人の出し方が上手いのかわたしが下手なのかわからないけど去年台風の時に片付けたバケツを出してきてもう一重にごみ袋を被せてシールを貼り直してぎゅうぎゅうと押し込んだ。シールは剥がせないつくりになっているから一回分無駄になった。たぶんこんなにぎゅうぎゅうにしたら回収してくれる人が出すとき手間がかかるだろう。すみません。と思いながら置いた。
その時点で珈琲を煎る気分ではなくなっていた。冷蔵庫に昨夜食欲がなくて残したハヤシライスが入っており温めて食べた。フライパンに入ったままだと思っていたルーはキャセロール鍋に入れて冷蔵庫にあった。娘の話だと昨夜から入ってたらしい。そういえば入れたかも。洗い物をして流れ作業でやったから覚えていなかった。
娘も今日休みで出かける支度をしている。買いたいものがあるそうだ。買ってきてあげようかと言ったらずいぶん難しいものを買うらしいので一緒に行こうかとなった。
今日は珈琲教室の有志のメンバーで一杯1500円からという珈琲のお店に遠足に行くことになっている。何度も書いているが電車が遅れがちなのでうんと早い目に家を出ておいた方がいい。無印良品に行きたいそうなので無印のカフェでランチを食べようとトントン拍子で話がまとまった。
無印のビューラーのゴム。と思っていたけど無印の携帯用のビューラーと資生堂のビューラーのゴムだった。一緒に来てよかった。あと自分も探していたクリーム状のアイシャドウとヘアトリートメントを買えた。重たいけど娘に全部持って帰っておいてもらう。天王寺で娘と別れて八尾へ向かった。
目的の駅に着いて改札を出たら先生たちがもう来ていた。他の人たちもじきに来て、ここから歩いて15分ほどだという。雨止んでよかったですねと言いながら郊外の風景の中を歩いていった。一軒一軒の区画がずいぶん広い。どの家にもお庭があって、ちょこんと覗いている紫陽花が可愛いですねとか、こんなに芝生が広かったらワンちゃんの散歩しなくても運動できそうですねとか話しながら歩いた。お店については一人の人が知っておりわたしはなにも下調べもしていなくてさぞかし情熱を注いだ淹れたての珈琲を出してくれるのだろうと思っていた。目的のお店は住宅街の少し畑などが広がるところにあって、黄色いテントに「珈琲だけの店」と書いてあった。ここまでは予想の範囲内だった。
予約していたので席を準備してくれていて、すぐにお水を持ってきてくれた。「このグラスはマイセンで〇万円。」えっ。なんだか水が輝いて見える。グラスの底にカットが入っていて光を反射しているのだ。マイセンのグラスでお水を飲むのなんて初めてだから扱いに気を付けなければいけない。もう一人車で直接来る人がいてそのことを店主さんに伝えたら水置いとくねと言って、そこから珈琲の説明が始まった。珈琲へのこだわりが強く感じられる。おひとりでお店を回しておられるそうだから今日は何人ものお客の対応をどうされるのかも勉強させてもらおうと思っていた。
店主さんは話術が巧みというか、テレビが撮影に来たとかアラブの人が十万円の珈琲を飲んでいったとか自慢っぽいけど悪い気はしなかった。途中でわかってきたことだけどこの店主さんに会いたくて通ってくる人が多いお店だったのだ。
店主さんがうちの伯母にちょっと似ていて、たぶん頭の中でいろんなことが駆け巡って全力でおもてなししてくださっているのだ。五十分くらいかけて珈琲を抽出して、高価な食器を惜しげもなく出して、貴重な中原中也のサイン本を見せてくださって、その時横にあるグラスが割れてしまわないかはらはらした。わたしも同じ血を間違いなく受け継いでいる。わたしはぼんやりと、自分のペースを守りたいというのが勝っているから人にサービスしないという違いはあるけど、どうしてそうするのかはなんとなく想像がついて、だから笑いたいような悲しくなるような気持ちだった。そのお店は朝六時から深夜の三時半まで開いているらしくて、朝早い人にも夜中に仕事の終わる人にも珈琲を出そうと思ったらそういう時間になるのだろう。店主さんは自分のお店が一番好きな場所だからうつらうつらして一日一食食べてそれでいいとのことだった。食べログの唯一無二というクチコミは嘘ではない。珈琲もまるでワインを飲んでいるようだった。最初の方でお腹が痛くて帰りたかったのだけど二時間以上滞在させてもらって満足した気持ちになっていた。でもわたしは人と話すためにカフェに行かないので一人で行くことはないだろう。カフェは自分にとって必要でそれはたぶん気持ちの切り替えをする時間で、時々放心したり寝込むのも自分にとって必要な行為でそれが誰かと話すことだったり運動をすることだったり、人によっていろいろあるのだろう。
帰りまた電車が遅れていた。人身事故でないといい。電車もホームも人で溢れて、手すりを持てない状態で電車に乗るのが怖かったから各駅停車に乗ることにして、一本やりすごしてようやく座れた。帰るのに長い時間がかかってひどくくたびれていて車で駅まで迎えにきてもらった。主人が来てくれる時バケツを車で引き摺ったらしくて、出かける時まあいいかと車の前に置いたままだったのだ。バケツのことは頭から消えていた。また失敗してしまった。今日は晩御飯を食べずにこの文章を書いている。

ほんとうは一瞬空を見たのだ。空の端に夕焼けの最後の赤が残って、ひとつ明るい星があった。でも空の色が何色か考えられなくて、文章も書ける気がしなくて、セロトニン不足でなんとかかんとかやっているのだからもう少し頑張ってみようと考える。
また空を見上げることはできるだろうか。


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バレエ - カミジョーマルコ

大粒の汗が流れるスタジオで
私は魚になっていた。
尾ひれも背びれも動かない鋼の魚だ。

熱気のこもる水槽の中を
神様の大きな大きな人さし指が
ぐるぐる無情にかきまわす。

右に 左に
ぐるぐる ぐるぐる
魚はただ ただ まわりつづける。

パッセ アロンジェ デヴェロッペ
先生の口から飛び出す奇怪なカタカナは
たちまち空中分解し
私の体に絡みつく。

私は 波の動きに合わせようとするけれど
他の魚のように
流れに身をゆだねてしまうことができない。

鋼の魚はやがて鋼の塊となって
静かに少しずつスタジオの底へ沈んでゆく。

泳げない魚、飛べない鳥、跳ねない兎

みんな、行き着く先は何処だろう

空気の粒がだんだんと冷たくなった。


キッチン - 宮村茉希

体調を崩して一ヶ月家に引き篭もった。
息をするのもやっとだった状態から、散らかり放題だった部屋の掃除を始められるぐらいに体が動くようになった頃、自炊もできるようになろう、と思った。自力で体と心を立て直すための習慣が必要だ。それは親がいなくなってから学ぶには遅すぎるかもしれない。
気を抜くと、無意識に甘いものに手を出して糖質過多になる。比例して鈍くポンコツになる体調。

YouTubeでレシピを検索する。
今、巷で流行っている(?)ライスペーパーを使った料理で、豚ひき肉と大葉、それと韓国海苔を一緒に巻いて焼いたもの。表面が焼けたら引っくり返し完成、ズボラ飯。という簡単に作れそうな短い動画を観ながら手を動かしてみる。見栄えは良くないけれど、食べれなくはない、と思う。

「これ、ちゃんと中まで焼けてる?」と母親に訊かれる。「うん。表面が焼けてるし、まあ大丈夫じゃない?」と返すと「ダメダメ。ありえない!」
牛肉は多少生焼けでも食べれる、豚と鶏は完全に中まで火を通さないと食べてはいけない。肉を扱ったまな板や包丁は必ず洗って除菌しておく。これからの夏の時期は特に注意。
当たり前! だけどめんどくさ! 料理って手間かかる! 短気な自分にとって、何事も待機していなきゃならない状態がしんどい。スピーディーに成さなきゃ楽しくない。じっくり弱火でことこと、なんじゅっぷんも具材を睨み付けるようなマゾレシピもある。人生はあっという間なのに待ってる時間なんて勿体ない。
それでも人はご飯を食べなきゃ生きていけない。それに、自分の体が壊れてから回復するまでの時間と比較すれば、なんてことない時間なのかも、と思い始める。

中学生の一時期は、カロリーメイトのチョコレート味しか食べていなかった。体重が減りすぎたのでそのまま入院した。
50キロまで体重を増やさないと退院できないルールができて、泣きながらひたすらご飯をかきこんだ。もともと食に興味が無かったし、早く食事を済ませないと気が済まない。
退院しても、食事をすることが苦手だったので、体重もほとんど元に戻り痩せ細っていた。
高校の頃は食器洗浄のバイトをしていた。料理人がひたすら調理する最中、隅にある洗い場で大量の残飯をゴミ箱に押し込み、昼から夜まで皿を永遠と洗う係りだった(この作業は嫌いではなかった)。

真面目に食について考えることを長いこと避けてきたが、好きでも嫌いでも、食べて生きていくしかないなら、好きになれるよう向き合ってみてもいい。少しずつ。
自分で作った料理の写真を撮り、記録しておく。出来良く完成したものもあれば、見栄え悪く写るものもたくさんある。見た目も重要なのだ。
そういえば、あの頃一緒に働いていたシェフの横顔はいつも笑顔だった。穏やかで仏様のような人で、洗い場の仕事で忙しい間にいつも無言で差し入れを置いていってくれた。不思議な人だ。あの人みたいになれるのかな?

友人に「体調だいぶ回復してきた」とメールする。「ぼちぼちいこうよ」という返事。明日は何を作ろうか。亀の甲羅の上に乗った私はちょっと得意気。

挿画・宮村茉希


麻績日記 「歌と心」 - なつめ

「歌が心に寄り添ってくれる」
 以前、ウクレレミュージシャンの方からウクレレの弾き語りを習っていたとき、その方がそう言われていたことを思い出した。私はその方のおかげで、ウクレレの弾き語りができるようになり、本当にそうだなと思いながら、いつもウクレレと一緒に歌を歌っている。歌を「聴く」ことは小さい頃からしてきたが、歌いたい歌をウクレレで弾きながら自分の声で「歌う」ことは、まるで今の私の心の声が出てきたように聴こえてくる。私の心とその歌が一緒になって、寄り添い合いながら一緒に歌い、外に出て来て、言い表しようのなかった心が解放されていく、そのように感じている。それはカラオケで歌うこととは違い、ウクレレの素朴な音色が、そっと心に寄り添ってくれているようにも思う。ウクレレの素朴でとぼけた音色だからこそ、私のとぼけた心の声にもそっと寄り添えるのだなと、思った。

 日本人にとって和歌を詠むことは、この移ろいやすく捉えようのない心を限られた三十一文字の中に収めることで、今感じている心を的確に捉えようと試みることだったのではないかと、考え始めている。限られた字数に制限することで、あらゆる余分な言葉をそぎ落とし、さらにそぎ落として、本当に表したい言葉を見つけて和歌にする。そのそぎ落とされて残った言葉こそが、外に出したかった心の言葉なのではないかとようやく気が付けたのである。『古今和歌集(仮名序)』の「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」から始まるこの序文から、「見るもの聞くものにつけて、言い出せるなり」その言葉は人の心の発露だと思っている。なんとなく声に出して言い始めた言葉は自然と出てきた心の言葉であり、今見たもの、聞いたものから感じた気持ちがそのまま露わに出てきた言葉は、あっとゆうまに色々な方向に広がり、自分でも結局何を言いたかったのかわからなくなりそうである。そのよろずの言葉を限られた字数の歌にすることで、外に出し、誰かと共有することは、あれこれ広がり過ぎたモヤモヤとした人々の心の救いにもなっていたのではないか、と真面目に考え始めた。誰かとモヤモヤした言い表せない気持ちを共有することで、気が付くことも救われることもある。『をばすて』で男が読んだその「わが心なぐさめかねつ」の意味を考えたとき、実際に「をばすてに照る月」を見て私はどのようなことを思うのだろう。そんなことをぼんやりと考えていた私は、ずっとなぐさめきれなかった過去の気持ちが、この村を訪れる機会を引き寄せたのではないか、とも思い始めた。このタイミングで「わが心 なぐさめかねつ 更級の をばすて山に 照る月を見て」の和歌を思い出し、この更級の地を訪れることになった私にとって、この和歌は、十年前の過去と今をつないでいるように思った。今となってはっきりわかったことは、このたび訪れることになった麻績村が私にとって「癒やし」と「気付き」のための入口だったということである。


管との話 - UNI

 朝のアラームがわたしを起こす。アラーム音の名前は「波」で、アラームの名前は「起きて」だ。
 風が湖面を波立たせるように、アラーム音がわたしの血液を波立たせる。起き上がる。体はらせんの動きを繰り返す。左半身を軸にして右半身を起こし、左の腰骨や肘を軸にして上体を起こす。頭の重みは背骨を軸にふらりと弧を描き、首の上におさまる。起き上がり、ペタペタと室内履きを鳴らして用を足しに行く。ちょろりとしか出なかったことに、わたしの心は曇る。
 手を洗い、台所でカップに水を汲む。二口啜る。水もらせんの動きで胃に落ちていくのだろうか。息を吐くと、こめかみがじわじわと絞められていくのを感じる。みぞおちから苦い汁が出る感覚に、吐き気を催す。
 昨晩食べたものを思い起こす。白飯、納豆、胡瓜の三五八 さごはち漬、人参のラペ、茹でた鶏肉二かけら。これで胃もたれを起こすようなら、胃腸科へ朝一番に行くべきだろう。
 わたしはふたたび寝転がる。寝転がれるだけの時間がある。吐き気のせいで、息を深く吸うことができない。カーテンの隙間から射す陽がもう強い。北海道のこの町の日の出時刻はすでに朝3時45分だ。
 深く吸いこまれた冷たい空気は、鼻から喉を通り、体内へまわる。その時わたしは肉体が単なるくだであることを感じる。

 管は思う。二日酔いは、その犯人が明らかなことが幸いだ。
 管は今日、何に対して怒りを覚えればいいのかわからない。
 管は途方に暮れ、管の中に波打つ黒い水が鎮まるのを待つ。

 監督 管
 脚本 管
 演出 管
 出演 管

 管はなぜ演じ続けているのかわからない。いつ終わるのかもわからず、管は脚本を書き続けている。それを管が演出し、時に喧嘩腰になりつつも軌道修正し、また演じる。
 それは実は管にとって幸せなことだった。管は連続ドラマも映画も嫌いだった。10回で終わるドラマ。12回で終わるドラマ。3ヵ月続くドラマ。映画、60分、120分、210分。そこには山場があり、伏線がある。トリックと、ネタばらしがある。起と承と転と結がある。管が一番嫌いなのは結だ。まだ許せるのは転だ。
 管に言わせると、突然打ち切りになるドラマは最高である。例えば真っ暗な画面がずっと続いている映画が一本あったとしよう、とも管は言った。それも、最高である。ということだ。
「つまりだよ」
「つまりだよ、なんて現実に言う人、初めてだ」
「つまり、管は人生を賛美しているわけですね」
「そう、エンドロールが作れっこないからね」
「じゃあ一番嫌いなものはエンドロールということになりますけど」
「そう受け取ってもらって大丈夫ですけど」
 そう言って管は静かになった。
 わたしは枕もとの本を取り、ページをめくる。エンドロールとは。
 エンドロールとは、『これには魔術師の呪文があれば十分だ。』キルスティ・マキネン『カレワラ物語』



どう見るか - 下窪俊哉

 さて、イメージとはどんなものだろう? 試しにザッと整理してみようか。

 人が初めて絵を描き始めた頃、おそらく自らの中に外界を見る意識を得て、その心をもって描写しようとしたのだろう。物や空間を、見えるがままに写しとろうとする。そこに生まれるイメージを、〈外的イメージ〉と呼んでおこう。
 たとえば前回、こんなことを書いた。──家の2階にある私の部屋の窓から、隣に立つ大きなタイサンボクがいつでも見えている。その木はいま、家の屋根よりも高くまで背を伸ばしている。朝には、生い茂った枝葉の中に光をぽたぽた落とし、それを見ている私の目を愉しませてくれる。
 木が背を伸ばすとか、光を落とすとか、そんなふうに書いている私には、その木が半ば人のように感じられている。これは擬人法的表現と呼べばよいだろう。〈外的イメージ〉が、私の〈内的イメージ〉に流れ込んできて影響を与えている。
 一方、私という書き手の中には、自律した〈内的イメージ〉もある。
 たとえば、また見つかったよ。何が? 永遠がさ。太陽と海が混ざり合ってるんだろ。──と書くとする。永遠というのは〈内的イメージ〉の最たるものだろう。それが太陽と海という〈外的イメージ〉と混ざり合って見えてくる。
 私の内にあるはずのイメージが変貌して、外に見えるものとして現れることがある。それを幻想と呼ぼう(心象という呼び方もある)。〈内的イメージ〉が、〈外的イメージ〉に流れ出しているのである。

 自らの中に外界を見る意識を得て、外から内へ、内から外へと往復しているのがイメージと言えるだろう。その多くはかたちを持っているが、かたちを持たないイメージもある。

ものたちのひろがりの中を
私は歩き続ける
ふと風が立つ
すると時が身動きする

(谷川俊太郎「ひろがり」より)

 このような詩の部分は、わかりやすいイメージの例になる。「ものたちのひろがり」という抽象的なイメージの中を歩いて、「風が立つ」「時が身動きする」といった擬人法的表現に続ける。
 ただ、このような詩にも、元々はもっと写実的なことばの連なりがあったはずだ、と考えるのが自然ではないか。そこには具体的な「もの」があり、空間があり、風は吹いていて、時は徐々に過ぎているのだが、詩はそこでことばを問題にし、写実を削ぎ落とし、表現の冒険に出るのである。

 散文における描写というものを考える時、まずは〈内的イメージ〉を出来るだけ抑え、物語(story)からも距離を置いて、ただ見えているもの、聞こえているもの、などの感覚を書くということをしてみると、それがどういうものなのかわかりやすくなる。
 そこでは、誰が、どこから、どのようにして見ているか、聞いているか、感じているか、というのが重要になってくる。
 見る人がいなければ、見られるものは存在できるだろうか、ということになる。どう見るかによって、それは違う姿になって現れる。常に問われているのである。

(私の創作論⑤)


表紙・矢口文「六月の庭で(素描)」

ひとこと - 矢口文

頭の中のイメージだけで作品を描きたいと思っていたんですが、すぐ行き詰まってしまい、見て描くことに戻ってきました。しばらくは素描をしようと思っています。今月号から表紙絵で参加しますのでどうぞよろしくお願いいたします。


巻末の独り言 - 晴海三太郎

● 雨の美しい季節になりました。じめじめしていますが、今月もWS(ワークショップ)マガジン、お届けします。● 今月から表紙の絵を描いてくれることになったのは、矢口文さん。以下、編集人から簡単にご紹介させてください。

 先月までお願いしていた宮村茉希さんの近況は、今月号の「キッチン」で本人が書かれている通りですが、「他に良い方がいれば表紙は代わってほしい」という申し出があり、どうせなら、これまでに付き合いのなかった新しい方にお願いしたいと考えていました。
 そんな時にふと思いついたのが、矢口文さん。Twitterでアクリルの抽象画を拝見したことがありましたが(残念ながらその時の個展には足を運べなかった)、以前は日本画を描かれていたというのも伺っています。何となくピーンときて連絡をとったところ、こころよく引き受けてくださいました。
 送られてきた素描(草たちが葉をひろげ、飛び立とうとしているよう)を見た時に、ハッとしました。そうか! WSマガジンはことばによる素描集と考えればよいのかも?
 とはいえ、いま描きたいもの・ことを描きたいように描いてください、というのがコンセプト(?)なので、これからどんな絵を見せてもらえるのか、楽しみです。

(編集人・談)

● このWSマガジン、参加方法は簡単で、まずは読むこと、次に書くこと(書いたら編集人宛にメールか何かで送ってください)、さらに話すこと、というのもあり「WSマガジンの会」というのを毎月、画面越しにやっています。全てに参加しなくても、どれかひとつでもOK、日常の場に身を置いたまま参加できるワークショップです。● 書くのも、読むのも、いつでもご自由に。現在のところ毎月9日が原稿の〆切、10日(共に日本時間)リリースを予定しています。お問い合わせやご感想などはアフリカキカクまで。


道草の家のWSマガジン vol.7(2023年6月号)
2023年6月10日発行

表紙画 - 矢口文

挿画 - 宮村茉希

ことば - RT/犬飼愛生/UNI/カミジョーマルコ/下窪俊哉/スズキヒロミ/なつめ/晴海三太郎/宮村茉希/矢口文

工房 - 道草の家のワークショップ
寄合 - アフリカの夜/WSマガジンの会
読書 - 波の観察会
放送 - UNIの新・地獄ラジオ
案内 - 道草指南処
手網 - 珈琲焙煎舎
名言 - 流行るものは、必ず廃る。
謎謎 - 目を探しながら歌う曲は、なーに?
天気 - 無色空
準備 - 底なし沼委員会
進行 - ダラダラ社
心配 - 鳥越苦労グループ
音楽 - 鼻唄楽団
出前 - インスタントラーメン研究会
配達 - 雨音運送
休憩 - マルとタスとロナの部屋
会計 - 千秋楽
差入 - 粋に泡盛を飲む会

企画 & 編集 - 下窪俊哉
制作 - 晴海三太郎

提供 - アフリカキカク/道草の家・ことのは山房

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