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「表現の不自由展かんさい」を観て感じた、「表現」と「芸術表現」の違い

先日7月16日(金)、話題の「表現の不自由展かんさい」に行ってきた。今回はこの展覧会を観てのレビュー、感じたこと等々を記していきたい。

観覧に至ったモチベーション

「表現の不自由展かんさい」については開催までにもかなり紆余曲折があった。
直前まで、安全面の確保ができないとして会場の利用許可を取消した施設側と、その措置は不当とした主催者とが大阪地裁→高裁にて争っていた。地裁での「利用停止は不当」という判決に対し、施設側は高裁に即時抗告していたが、高裁はそれを棄却、これが開催前日の15日のことだった。そんなこんなで前日になんとか正式に開催にこぎつけた訳である。
僕はその日の夕方のニュースでその報を知った。翌日は夕方にオフィスに行く用事があり、会場のエル・おおさかはオフィスから歩いて20分程度、「散歩がてら行ってみようか」と思い立った。
名古屋でのいきさつはなんとなく聞いていたし、当日は警察も動員され厳戒態勢で行われるという。野次馬精神に加え、問題となっている各展示を観て自分自身がなにを感じるか、観てみなければ自分でもわからないと思ったことが、行こうと思ったモチベーションである。
僕自身、日本万歳!みたいな右翼ではないものの、それなりに愛国心はあるし、天皇制も肯定しているし、周りには「保守派の友人」もいる。とはいいつつ、現代日本の保守政治になんとなくは不信感を持っている、というありがちな20代・無関心層の自覚があったので、右翼の反対活動や左翼的な展示を観て、自分のなかになにが生じるかを確認したかった。
家族には「爆破に巻き込まれないように気をつけて行くね」などと軽口を叩きながら、展示会に行く旨を伝えた。

殺気立つ会場前

16日のお昼ごろ、整理券が思ったより早く売れているという情報を得て、予定よりも早く家を出て、整理券を貰いに行った。エル・おおさかという施設には行ったことはなかったが、天満橋から土佐堀通を北浜方面へ歩くとすぐに会場はわかった。ただならぬ雰囲気の人だかりが見えたからだ。通りを挟んで北を流れる大川側に日本国旗を掲げた反対運動のメンバー、そして会場側にはプラカードを掲げサイレントスタンディングで抵抗を示す展覧会支持者と、整理券購入の列に並ぶ人々が見える。
最後尾に並ぶと数分で後ろに20名ほどが並び、本日の整理券は予定数に達したというアナウンスがあった。間一髪で最終時間の整理券をゲットできた。

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整理券の列に並んだ時間は1時間程度、その間も向こう岸からは右翼団体の怒号のような抗議が飛んでくる。
「おい!レイシスト!日本人馬鹿にしておもろいんか!そっちになんにん日本人おんねん!どうせその列並んでるんも反日の朝鮮人なんやろ!」
こんな一息に二枚舌を使えるもんなんだなと、寧ろ関心してしまった。
団体の街宣車もエル・おおさかの周りをグルグル回り、施設の前を通るときにはご丁寧にスピードを落として怒鳴り散らしていく。しかも会場側の1車線は警察がバリケードを張っているため、道は混雑を極めていた。知らずに車で通りかかった人にはとんだ災難だったろう。
列に並んでいる人は展覧会のスタッフや展示会支持者と面識のある人が多数(おそらく左翼活動家の繋がり)、ジャーナリスト風の大荷物持ち、他には学生もちらほら見えた。僕のような野次馬根性の人間も結構いたと思う。(左翼系や報道関係者はなんとなくの雰囲気でわかる。)

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整理券の入場時間は7時から、それまでオフィスでの用事を済ませるなど時間を潰して予定時間に入場した。
その時間でも、人数は減っていたものの会場前の通りには両者の活動家が睨み合っていた。

展示に対して/芸術とは?

展示の内容は①反基地・反原発②天皇制批判③人種(中韓)問題の3つが主なるテーマとなった作品たち。どれもが他の展示会やコンクールなどで、「大人の事情」で展示されなかった、「表現の不自由」を被った作品たちである。

結論、個人的には、辛辣だが芸術としての評価に足るものはほとんどなかった、というのが感想である。

この展示会は作品の横に小さい(あまりにも小さい!)作品説明があった。その小ささは大浦信行氏の展示(下画像参照、例の昭和天皇の作品の作者)の説明で使われた「大文字で書かれた歴史」を受けて、敢えて小さな文字で書いている(=小さな声に意識を向けてそれを拾い上げる)、といった意図を持っているのかとも思えたが、その小ささの割にはあまりに雄弁に作品を語っている。作品単体で鑑賞しても、あからさまにその安直なメッセージがいとも容易に読み取れるのに、である。

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作者の声が大きすぎると興ざめしてしまう。品がない、ともいえよう。
ダビンチがモナリザの隣で逐一この絵画のどこどこがいい、どこどこを見てくれ、と大声で言っていたとしたら、果たして現実ほどモナリザは評価されているだろうか。

この展覧会では観覧者は作品ではなく、説明を鑑賞していた。

個人的な芸術観になるが、芸術鑑賞は作品を通じて、制作者と鑑賞者とが、自身から湧き出す感動を共有する営みだと思う。必ずしも鑑賞者の感動が制作者の意図と一致するわけではないが、重要なのは作品を通じて対話が行われることであり、そこに制作者と鑑賞者との干渉は不要であるという点である。
この展示会に表現の自由はあっても、鑑賞者が自分で作品を消化する余地、「鑑賞の自由」はなかった。
この展示会での各展示物は、芸術表現というよりは表明等というほうがしっくりくる。

本展示会の意義

では、この展示会は無意味なものだと思ったかというと、NOである。

先にも書いたとおり、この展示会に「表現の自由」は確かにあった。「大人たち」に抹殺されそうになった表現物が堂々と展示されていた。

文化に基づいて政治はある。伝統的な文化慣習を軽視した独裁政治は長続きしない。
その一方、文化を守る枠組みもまた、政治が作らなければならない。文化は保護しなければ廃れ、破壊される。それを防ぎ、守ることができるのは政治に基づいたルールのみである。

なぜ文化は保護しなければ廃れるのか。
――悲しいことに、悪意を持って文化を破壊しようとする者がいるからである。特に(政治的・宗教的な)信条の異なる相手にはその文化それ自体を否定したくなる。
これは明らかに間違っている。この21世紀に文化相対主義を否定するものはいるまい。
信条が異なるからといって相手の文化を否定し、抑圧する理由にはならない。

本展覧会が芸術的・文化的なのかはさておき、自国の過去、現在を自国民が批判し、それを「表明」する、それが認められることが民主主義である。
街頭で右翼団体が「おい中国人!」と怒鳴っていたが、中国でこのような展示会が開催できるのだろうか。

この展示会が開催されたということは、政治的信条に関わらず、この国に住む人々みなにとって、この国の民主主義を示す、価値あるものになったのではないかと思った。

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最後に、余談として

右翼の街宣車がadoの「うっせえわ」を流しながら走っていた。歌詞をよく聞けば、どちらかというと革新派が好みそうな曲なので意外だったが、どうせ過激な表現ばかりに意識を取られ、歌詞を噛みしめて音楽を吟味しているものなどいないのだろう。まさに「愚かさを見せつけられた」格好である。大音量での垂れ流しに、道を通った人もみな「お前がうっせえわ」と思ったに違いない。

もっとも、曲自体に賛否両論あるとはいえ、こうして楽曲が政治的に消費されてしまうのは不本意だなとは思った。

以上。

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