見出し画像

水辺の楽譜

カメラ好きの私が過酷な旅をした。

  特急に乗って2時間ほどの所に、行き慣れた町があった。海、それと町も綺麗だから、毎年風鈴が揺れる頃に1人で足を運ぶ。

  今年もその季節になって、古びれるも美しい駅の同じ時間、同じ特急、同じ席を取る。ノースリーブのワンピースに麦わら帽子、サンダル。
それとお気に入りの______

あ、忘れた。

  お気に入りのカメラを家に忘れてきてしまった。鼓動が大きく鳴ったあと、気づかなかった蝉の声が鼓膜を叩いた。出発まであと10分。絶対に取りに帰る時間はない。焦りだろうか汗が首を伝う。けれど私の心はふわりと軽くなった。カメラのない旅をしてみようと。そのまま乗り込んで、いつもの席に座る。カメラが無いだけで、毎年一緒に来ている旅仲間がいないような寂しさを感じた。けれど今年はそれでいいのだ。なんだか大切な旅になりそうだから。


  ________目を覚ますと、目的地まであと2つになっていた。外も明るくなっている。太陽が高くて、私の住む街より少し暖かいみたいだった。降りてあの商店街を目指す。いつものカメラがいない。不安と同時に期待が湧いていた。

  代わり映えの無い景色。これだから毎年来てしまう。たとえ私がどれだけ時間に揺さぶられても、ここだけは動かない、いや、動いてくれない気がする。硝子とオルゴールが有名な町だから、車が2台通れるか通れないかの狭い道の両側に、隅から隅まで沢山の硝子館と堂が並んでいた。時々いい香りが漂う出店も。それは檜だったり、レンガ造りの大正浪漫な建物ばかりで。海まで続く水の路には小さな橋と、こちら側から向こう側までの糸に彩やかな風鈴が靡く。

  どれも誰にも見せたくないほど眩い。癖で首にかけたカメラを取る動作をしてしまう。虚しくも私の手は今日は宙を空振るだけだった。

  あぁ、こんなにも美しかったのか______
いつもレンズ越しの凝視だったから知らなかった。この町の色彩を知った気でいた。誰よりもここの美しさを知っていると、ここの夏は私のものだと。そう思い込んでいた。
  何年ぶりだろうか、ここへ初めて来た日のことを思い出す。まだ青かった私は、たしか乗り間違えてここへ来てしまった。その時の記憶が今だから鮮明に思い出された。過ぎ去っていく年月に鈍感だった私はこの頃を忘れてしまっていた。何もかも奇麗なこの震える景色に何故レンズをかけてしまったのだろうか。何時から足早に歩くようになってしまったのだろうか。この旅が過酷だと思っていた私が馬鹿だったらしい。

  太陽が沈みかけていた。晴空が濃くなる。また海風が色の変わった風鈴を撫でて、私の夏の始まりを奏でる。
  不安は心に雲がかってもいなかった。新鮮な私だけがそこにいた。

夏に足を躍らせて帰ろう。

カメラのない私は、まだ青き春の中の人だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?