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夏を追いかけて

  八月の始まり、私は使い古した木蘭色のボストンバッグに必要なだけの着替えとそれ以上の書籍、曲がり癖のついたイヤホンを無造作に詰めていた。あとは自信が無いだけの飾るアクセサリーと、デジタルカメラ。

 
  これから故郷、北海道へ帰る。東京とは違って、瑠璃を思うような爽やかな風と、牧羊犬がうたた寝をしそうな心地よい陽の光。慌ただしい都会に踊る迷子を忘れ、瞳を閉じれば木々が囁く声と、走れば追いつきそうなほどのどかな電車の音に耳を澄ませることに胸を躍らせて。

  飛行機から見下ろした景色は、広大な浅葱色から深い緑。雲が地を覆う形がわかるほど乾いた空気。それは語れぬ美しさを持ち、自然と瞳が潤う懐かしさに襲われる。五感全てへの刺激に栄養があるようだった。空を見て良かった。当たり前だったものがまた新しいものとして生まれ変わり、私の元へ届いて温かくなった。

 

  実家の内装はすっかり変わっていた。皮で出来た大きなソファは赤褐色の硬い絨毯のような生地に変わり、大きな1枚の窓を覆う紺のカーテンには赤い花の刺繍が施されていた。二階の自室からは少し物が無くなっていたが、それとは逆に、一階の旅の写真やお土産を飾っていたコルクボードには、私が子供の頃に両親に宛てた手紙や絵が増えていた。それをデジタルカメラに残す。憶えていられる自信がないから。見蕩れていると、後ろからグラスに氷を一つ一つ入れる音がした。振り向くと紺碧の斑模様をした懐かしいグラスがそこにあった。何処か心を惹かれて手に取って離さなかったグラス。我ながら幼い頃の自分にはセンスがあると思えた。母が夏によく漬けていた蜂蜜檸檬を二切れと、弾ける炭酸水。パチパチと氷が温度に負ける音がして、いつかの打上花火を思い出した。

  荷物を置いて、外に風に当たりに行くと小さなバケツと立派な釣具が倉庫から顔を出し、父の大きな繋着は日に当たる所に干され、ゆっくりと水滴を落としていた。丁寧に草刈りされた庭の夏はもう、少しだけ枯れているように見えた。前に会いに来た時より痩せていた愛犬は、以前のように勢い余って飛びついて来ることは無かったが、懸命に尻尾を振って目を細め、笑っているようだった。年月の寂しさを感じながらも、覚えていたか?と優しく声をかけ頭を撫でる。感触を焼き付けるように。

  夕方、涼しくなってから母と2人で花壇の手入れをした。それこそ浴槽くらいの、北海道に比べたらちっぽけな面積にこれでもかと生命が宿っている。私よりも背の高い向日葵、均一に伸びた薫衣草、薔薇は色褪せている。母が駄目元で植えた仏桑華は絢爛に1輪だけ大きく咲いていた。その日の空と同じ、橙と赤の花弁は椛を呼んでいるようだった。反対の薄暗い水色をした天に白縹の月が出ている。満月だった。

  羽織るものが無いと寒い夜は東京を忘れるのには十分だった。沢山持ってきた書籍の中から一冊と、冷蔵庫の中にあったソーダ味の金魚が泳ぐ菓子を手に取ってベランダに出た。夕暮れに見た月の光は一層冷たくなっていた。古本屋で買った黄ばみのある本をその光が照らす。愛犬が小屋からのそのそと出てきて、隣に寝そべった。私に背を向けて眠った振りをするが、その顔を私の足に乗せてくっつき、温もりをくれた。その二人を見た両親が、渦巻いた緑の虫除けとマッチと線香花火を持ってきた。線香花火を最後まで落とさない方法を試してみたいと言う。三人で風を遮るように小さくなり、火を灯した。線香花火にはそれぞれの時間に花や木の名前が付いている。しかし多くを語ることは無く、最後まで皆が黙ってその現象を眺めていた。線香花火が黒く実ったのは私だけだった。

  両親はもう寝ると言って家に入ったが、物語の続きが気になっていた私はさらに一人で読み進める。すると古本にはよくある、以前にこの本に出会った人が残した紙切れが挟まっているページを見つけた。細く美しい、どこかに力強さも込められた字で
「どうかこの本を手に取った貴方が幸せになりますように、生きられますように。」
とだけ書いてあった。作者が誰かに宛てた物語だったのだろうか、それとも何番目かの読者が誰かに手渡した物語なのだろうか。それを受け取った人がこれを手放してしまったことに少し胸が痛む。想像が紙飛行機のように遠くへ飛んでゆく。急な睡魔に欠伸を誘われ、その日は家へ戻って眠りについた。一生涯分の探していた夏を見つけた気がした。



  目を覚ますと、私は病室にいた。今起きたはずなのに私は窓際の椅子に座って外を眺めている。不思議なことに外はもう既に日が落ちてしまっていた。しかしその夜は賑わっている。すぐ先の道路に飾られた幾つもの燈籠が葉を照らし、すっかり色が変わっていることがわかった。屋台が並んでいるのだろうか、煙がこちらまで漂う。静かすぎるこの病室でははしゃぐ子供の声まで聞こえてきそうだった。浴衣が丁度良いと感じる夜にするヨーヨー掬いは指先を冷やしてしまうが、射的はとてもでは無いが暑すぎるだろう。九夏が終わってしまったことに気付き、杪夏からテープを巻き戻すように追想した。はっきりとは見えないが、吊り燈籠には写真が貼られているようで、一人の女性が犬と映る後ろ姿だったり、食べ残しの水菓子や輪切りの檸檬が詰まった美味しそうな瓶、色彩豊かな花など沢山あった。何故か自分の知っている景色のようで、独りでに涙が溢れる。私の1番好きな線香花火の時間 “散り菊” の写真も見えて、それは鮮明でよく撮れていた。

  ふと手からメモが落ちる。それを拾い上げると滲んだ黒い字で。たった一行からきりがない想い達が目に見えるようだった。
「生きられますように。」
自分で作り上げた夢の水面から、私はようやく顔を出した。




  九月の始め、形を持ちそうな湿度のある風は姿を消し、儚い雲が空を高くする。その雲は太陽光を遮られなくなり、日は大きく南に傾いた。ボストンバッグが車に積まれた音がして、寂しくなる。心はまだあの夏のままで、淡々と過ぎた日々に置いていかれたようだった。あの夏にもう一度だけ会いたい。そう思いながら機内でカメラの写真を見返していた。あの古本の紙切れはコルクボードに画鋲で留めてきた。出会えた瞬間をまた思い出すために。


  東京に戻ってから、私はまだ成功例の無い手術をする。手帳の日程を指で辿り、準備をしなければならないことが多いとため息を吐く。その忙しさだけでなく、騒がしい足音とビルの高さにも。しかし、特急が通過する音に驚いて顔を上げるとまだ空には入道雲があった。音が消え、綻ぶ。まだ空は、私の心を突き放していない。まだ空は、私を待つように夏の顔をしていた。まだ空は、私の做る夏を喜んでいた。案外早くあの紙切れを思い出してしまった。
「生きられますように。」

そう言霊を零した。



 

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