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隠れても、無駄だよ

窓の外を見る。ビルの屋上から薄く陽の光が店内に射し込んで来る。仕事前に立ち寄る喫茶店の2階窓際カウンター席に座っている。右横ひとつ向こうのテーブル席に座る常連客の男は煙草を右手の人差し指と中指に挟んだまま、左手に持ったカップを口元に運んで珈琲をすする。細く天井に伸びる煙草の煙はそれほどやってこなくて、ぼくはマスクを外している。今朝も特別なことは起こらなくて、テーブルの上には冷めた珈琲が残っている。

窓からみえる通りの向こうの商店街の入口には人が誰もいなくて、いつも停まっている赤帽運送の軽トラックも停まっていない。商店街の入口近くの魚屋も、朝の8時になるのに灯りは消えたままで、開店の準備さえしていない。商店街が休みの日なのかもしれない。

「シャンッ…シャンッ…」小さく音が聴こえる。窓の外の、どこかから聴こえる。「シャンッ…シャンッ…」ちょっとためのある音だ。神社でよく聞くような音に近い。「シャンッ…シャンッ…」音は次第に大きくなってくる。「シャンッ…シャンッ…」…商店街の中だ。隣のテーブル席に座る常連客の男は音にまだ気づいていない。

暗い商店街の奥から、後ろ向きに歩いてくるスーツ姿の男が見える。その男はカメラを持っていて、フラッシュがたかれて明るい光が一瞬飛び散る。フラッシュは2つたかれて、3つたかれてと、明るい光がどんどん増えていく。5人ほどのスーツを着た男がカメラを構えて後ろ向きに歩いてくる。商店街の中からだんだんと現れてくる集団。そのカメラを構えた先には、この冬の朝にはふさわしくない、ピンクや赤やオレンジ色のスーツを着た八頭身の女が大勢で歩いてくる。ハイヒールの音が聞こえてきそうな出で立ちだが、とてもゆっくりと歩いてくる。八頭身の女たちの手には鈴のようなものが付いた棒が握られていて、歩く度に「シャンッ…シャンッ…」と厳粛な音を鳴らしている。

2階のカウンター席で腰が浮いてしまったぼくは、呆気に取られてその光景をみている。その頃には右隣のテーブル席に座る常連客の男も気づいたようで、目を細めてその光景をみている。その八頭身の美女軍団に囲まれた真ん中あたりをみると、鮮やかな緑色のスーツを着た背の低い中年の男が歩いている。よくみると、その鮮やかな緑色のスーツを着た中年の男の周りに美女軍団が配置されていて、それを囲むようにスーツを着た男たちがいて、カメラを持つ男たちが集団の一番前を後ろ向きに歩きながらフラッシュをたいて写真を撮っている。横断歩道の信号は赤になったが、集団はまだ横断歩道の真ん中あたりで、車道の信号が青になっても、その光景をみている車の運転手は車を前に進ませることができず、クラクションを鳴らすことも忘れている。

窓際にやってきたウェイトレスは魂が抜けてしまったような表情で、その集団をみている。真ん中を歩いている鮮やかな緑色のスーツを着た中年の男は手を振っている。いったい誰に手を振っているのか。左右を順番にながめて手を振っている。その緑色のスーツを着た中年男が、2階窓際カウンター席に居るぼくの方をみた。カチリ、と一瞬目があったような気がした。男は横断歩道の真ん中辺りで、ぼくの方をみながら、こっちを指さして何事かを叫んだ。50人ほどの集団の視線が2階窓際カウンター席に一斉に注がれる。後向きに歩いていたカメラマン達がこっちを見て2階窓際カウンター席にカメラを向ける。フラッシュが激しくたかれて、窓の外が真っ白になる。男の周りにいた集団がくずれて、すごい勢いで喫茶店の方に走り出してくる。ぼくの右隣にいる常連客の男は青い顔をしてぼくの顔をみている。

やばい感じがする。1階から今まで聞いたことのないような量の足音が聞こえてくる。ぼくはあわててしまって、どうしたらいいかわからなくなる。何が起こったんだ、何が起ころうとしているんだ。鞄はどこだ。コートを着るか。飲みかけの珈琲はどうするんだ。とにかくここから逃げ出さないとダメだ。階段を上がってくる大量の足音。常連客はどこにいったのか。ウェイトレスはキッチンに隠れたのか。外にでる扉は2階にはない。トイレに隠れるしかない。トイレの上に排気口があるかもしれない。そこから辿っていけば外に出れるかもしれない。とにかく鞄を持って、コートはもういいから、トイレに

〈了〉


【文章筋トレ(過去作品)修正済】

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