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境界の外にひらく表現

件名なしのメールが深夜のスマホに届いていた。

おやすみなさい。

受信から20分ほど経っている。
返信をタップしてRe:

おやすみなさい。

入力して送信する。

「おやすみなさい」とメールが来て「おやすみなさい」と送っても、返信が来ないのだから、あなたはもう眠っているのか、「おやすみなさい」の言葉をみたのか、境界線の向こう側のことはぼくにはわからない。

目を閉じて感じる、映像、音、感触、イメージ、画像、模様、変容するインスピレーション、そのときにキャッチした「何か」とつながる。

隠蔽はできない。全て表現に現れるから隠してもしょうがない。だから外にひらく。表現を出し惜しみしてもしょうがない。全てひらいて無くなれば、またつくれば良い。外にひらく。表現を外にひらく。

言い淀み、どもり、呻き、うぅっ、となって沸点を超えて叫ぶ。思いきり叫ぶ。全てがなくなるくらいに叫ぶ。そしてまた言い淀み、どもり、呻き、うぅっ、となり沸点を迎える。それで何もかも無くなればそれで良い。その時は何もない時を過ごせば良い。何もかも無くなることを恐れることはない。今すぐ外にひらけばいい。表現の源泉はなくならない。源泉は全てがつながる場所にある。自らの中に無くなったとしても、つながる源泉からまた沸き出てくる。

昨日の記事の「ポイント A」は『記憶の捏造』がモチーフだった。あの時にこうすれば良かったという過去の記憶。その要素を抜き出して物語として再構築する。記憶の中の現実と同じレベルで非現実を描写することができれば、それは新たな体験になるのではないかと。物語の中を生きて記憶を捏造する試み。そう上手くはいかないけど。

今日はこんな感じで。


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