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物語を作ってるのは誰?そろそろ締切が

今日のは少し長いよ。

「人生の主役は自分自身」ってよく言われますよね。
実はこの意味がハッキリ理解できたのは、つい最近のことだということを告白いたします。
ぼくなりの解釈で、ですけどね。

それまでは「言ってることはわかる。だから何だ」というような、腑に落ちていないというか、わざわざ言葉にする意味がわからないというか、断言する意味がわからないような、微妙な感じでした。

この感覚っていうのは、実際どうなんでしょう。
普通なのか、特殊なのか。
みなさん、この「人生の主役は自分自身」って言葉の意味について、深く語れますか?
語れるとしたら、それって普通なんですかね?
声高らかに主張している人たちと、同じ意味合いなんですかね?

少なくとも過去の僕にとっては、そんな記事読んでも全くピンと来やしませんでした。
熱く語られるほどに冷める感じ。

ちょっと過去の僕を呼び起こして、その時の気持ちを表現してみましょう。

ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー

世の中、いろいろな文脈で「人生の主役」が語られているようで。
たぶんその多くは「自分主体に生きてみろよ!もっと輝けよ!!」というような、とっても熱いメッセージなのかな、と勝手に思っています。

しかしそれは、自己肯定感が極端に低い過去の僕から見てみると、まったく的外れの意見でした。

考えてみてください。
働くことはおろか、外に出ることも満足にできず、人に誇れるようなものを何一つ持ち合わせておらず、貯金も尽きて無一文になった挙げ句、親にまで厄介者扱いされるような、まさにクソとしか言いようがない人間が、一体どうして主人公になれるというのでしょう?
仮にそんな人が主人公の物語があったとして、果たして読みたい、見てみたいと思うでしょうか?

もちろんそれは、途中で覚醒して大逆転するような、感動的な物語ではありません。
これから先のストーリーは、どんなに進んでも基本的に今と変わらない。
変わるとしたら、どんどん惨めになって行くだけ。
もしかしたら浮浪者になるかもしれないし、自殺してしまうかもしれない。
借金まみれになるかもしれないし、内臓を売り払う羽目になった挙げ句、繁華街の片隅で野垂れ死ぬかもしれない。
何一つ希望は無く、ただひたすらに絶望に向かって落ちていくだけの物語。

物好きなら読むかもしれませんが、万人受けはしないでしょう。
少なくとも、子供に読ませるわけにはいかない類の物語です。
胸糞が悪くなるだけで、同情の余地がないから。

そんな自分は、キラキラと煌く主人公が登場する物語の、脇役やモブになるのが精一杯でしょう。
顔は省略され、名前も与えられず、長大な物語のたった1コマにしか登場しないような存在。
あるいは主人公が飛躍するための踏み台か、主人公の優秀者を際立たせるために配置されるダメ人間か。

そんな人間が、どうして主人公になれるのでしょう?
そうなってしまった自分が、今更主人公になれるはずはないのです。
彼らが何を根拠に主張しているのか、まったく理解ができません。

ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー

ごめんなさい、かなり重苦しい話になってしまいました。
過去の僕に戻ったつもりで書いてみたら、シャレにならないくらい重くてびっくりしています。
読み直したら悲しくなった。

まあでも、過去の僕の言っていることは今でも理解できます。
向き不向きで言ったら、たしかに過去の僕は「主人公向き」とは言えません。
おっしゃるとおり、モブくらいがちょうど良さそうです。

でも、伝えたいのはそこじゃない。

もし、あなたが過去の僕と同じように考えているのなら、ちょっと試しに、今のぼくがこれから書くことを考えてみてほしいです。

そんな難しい話じゃないから、だいじょうぶ。
でも、ちょっと理解するのに苦労がいるかもしれません。
まあとりあえず、読むだけなんだから試してみてくださいよ。

ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー

一言で表現すると、過去の僕と今のぼくの「主役」に対する考え方にはズレがあります。

過去の僕は、こう考えていました。

「主人公は、ふさわしい人にしか務まらない。
自分のような存在が主人公になっても、希望のない最悪な物語が生まれるだけだ。
だから自分は主人公ではないし、主人公にはなれない」

でも、今のぼくはちょっと違います。

「人生は自分の視点でしか進まないんだから、主人公になるしかない」

こんな感じ。
物語の良し悪しなんて、別に問題ではありません。
誰が自分の物語を見るかなんて、関係がないので。
だって自分が死なないと物語は完成しないんですから、評価なんて何の意味もないんです。
悪い評価だったとしても、死んだ自分には認識できませんからね。

たまーに部分的に誰かに覗かれたりはしますが、基本は話の全部を人に見せることはできません(将来的にはわかりませんが)。
ですから物語の評価は、作った本人である自分が決めるしかないんです。

ぼくは子供の頃、こっそりとマンガを書いたりしていましたが、それと似ています。
人に見せるわけではないので、良し悪しを決めるのは自分自身。
自分でデキがいいって思えたのなら、もしかしたら友達には見せるかもね。

決して「主人公らしくキラキラしろ!」だなんてことを言いたい訳ではなく。
ただ、自分が満足できたり、納得できたりする物語になるように、自分ができる範囲でやってみたほうがいいんじゃないかしら、くらいの気持ちなんです。

だから別に、泣いていてもいいんです。
挫折してもいいし、失敗しまくってもいい。
もちろん、うつ病になってどん底まで落ちても構わない。

でも、それだけじゃつまらなくないですか?
ほんの小さなものでもいいから、もう少しラッキーなイベントを起こしてみたくないですか?
たとえば、コツコツとnote続けてたらいきなりバズった!とか、100円拾った!とか、最高に面白いマンガを見つけた!とか。

今までが悪くても、これからが良くなればいい気がしませんか?
不良がたまに良いことすると特別いいヤツに見える、みたいな効果が期待できますよ?(たぶん)

誰もがみんな主役だから、主人公キャラっぽい設定を採用しようとする。
気持ちはわかるけど、それはしない方がいいです。
自分は主役にふさわしくないからといって、クズキャラ設定を採用しようとするのも良くない。

なぜなら、それはあなたの価値観ではないから。
他人が作った価値観に基づいて自分の設定を作り、その通りに生きようとしたり、その通りにできないからダメなんだと考えることこそが、「他人の人生を生きる」ということなんだと、ぼくは思います(ややこしい)。

だからこそ、人生にはシナリオもキャラ設定も必要ないんです。
ぼくは設定で動くキャラではありませんし、決められたシナリオに沿って物語を作りたいとは思わないからです。
そこにあるのは、現実に存在している「自分」だけなんです。

伝わるかしら?

ーおしまいー

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