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映画短評第十二回『聖なる犯罪者』/嘘から出たまこと

 ヤン・コマサの『聖なる犯罪者』は、少年院で複数の若い受刑者が黙々と仕事をこなす中、それを看守が見守る場面から始まる。そして看守が部屋から退出した瞬間、この少年たちはいっせいに一人の囚人を羽交い絞めにし、殴りつけ、凌辱を試みる。このとき、映画の主人公であるダニエルも暴力に加担している。映画は最初にこのような突発的で、かつ強烈な暴力描写を観客に見せてくる。
 ダニエルは熱心なカトリック教徒であり、刑務所で定期的にミサを行うトマシュ神父の手伝いを任されている。彼は毎日祈りを捧げ、自分も神父になりたいという夢を抱く。しかし、殺人という重い犯罪歴を持つダニエルに神父への道は閉ざされていた。出所後、たどり着いた小さな村で、彼はマルタという女性と出会う。彼女になぜこの村へ来たかと尋ねられたダニエルは、とっさに自分は司祭であると嘘をついてしまう。マルタの紹介で村の神父に紹介されると、ダニエルはこの小さな嘘を撤回することを放棄する。村の老神父がアルコール依存症のリハビリで入院している間、彼はこの村の司祭を任されるのである。
 監督のヤン・コマサによれば、この映画は実際にポーランドで3か月間、神父のふりをしていた少年の起こした事件をもとにしているという。冒頭の少年院でのエピソードは脚本家によるものだが、興味深いのは、そのような暴力的な側面を描きながら、同時にダニエルが村人から徐々に信頼を得ていく過程をも提示していることである。特に、酒浸りになり落ちぶれた前任者の神父とは対照的なカリスマ性に目を引かれる。村人はいつしか彼の説教に耳を傾け、告解では涙さえ流すだろう。
 ダニエルは、あるとき村にやってきたトマシュ神父に自らの行いを咎められ、最後に村人の前で自分が犯罪者であることを告白する。ダニエルは自分が着ている司祭服を脱ぎ、いたるところにタトゥーの入った身体をさらけ出すのである。
 映画の英題「Corpus Christi」は聖体、つまりキリストの肉体との意味だが、実はタトゥーだらけのダニエルの身体が、ここで教会内に掲げられているイエスの磔刑図と重ねられることになる。その姿に村人はただ沈黙するのみである。それがたとえ嘘から始まったものだったとしても、この瞬間、ついにダニエルの肉体に、聖なるものが宿ったといえるのではないか。
(文・中島晋作)

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