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映画短評第十七回『シン・エヴァンゲリオン劇場版』/田植えする未来

 思い返せば、庵野秀明による優れた映画『シン・ゴジラ』(2016年)はきわめて国家主義的な作品であった。あの映画を乱暴に要約するなら「官僚はえらい」であろう。現代日本に突如現れたゴジラに対峙するのは国家という巨大組織の官僚たちであり、彼ら若手エリートたちの活躍、及び自衛隊の奮闘によりゴジラは(一時的に)制圧されたのだった。ゴジラに打ち勝ったニッポン。壊されても、また作りなおせばいいのだと映画は言う。
 2021年に公開された庵野の新作『シン・エヴァンゲリオン劇場版』で最初に目を引いたのは、155分というその上映時間の長さであった。そしてこの時間のおよそ30~40分が、田園風景を背景にした日常生活の描画に充てられているのである。足元は土がむき出しであり、街には市電が走り、図書館があり、畑がある。男たちは外で働き、女たちは家を守りながら田植えをする。つまりこの牧歌的なシークエンスが意味するのは、家父長的価値観さえ内包した戦前的空間への回帰に他ならない。映画の中で起こった破滅的災害からの再建、つまりスクラップ・アンド・ビルドでよみがえったのがこの前近代的空間なのである。
 また映画は最後に、すべての戦いを終えた碇シンジを山口県の宇部新川駅ホームに捉えるのだが、このとき、シンジがビジネススーツを身にまとっていることに注目したい。つまり、95年から始まり20年以上かけて庵野秀明が描いた「エヴァンゲリオン」という葛藤、その最終的なゴールはサラリーマンなのだ。組織の中に生きることこそ「エヴァ」が最終的に提示する幸福の形である。
 『シン・ゴジラ』も『シン・エヴァンゲリオン劇場版』も、活劇的構図の斬新さ、誰も見たことのないアポカリプス・イメージを現出させたことの功績だけでも、疑いの余地なく傑作である。ただし、それが日本の右傾化と同期し、保守的思想をも内在させたサラリーマン礼賛映画だということは記憶にとどめておきたい。
(文・中島晋作)

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